【前回の記事を読む】"いじめる側"に回る、それが私の生存戦略だった——。登校初日、教室のドアを開けた私は、この場を支配するために……

4.アダプト

私はO中学で、人間関係の通貨というものを一切持っていなかった。コミュニティにおいて一文無しの貧乏人だった。だが、今は違う。計算できる。持つことができる。

あと、私の外見についても言っておく。

客観的に見て、私の顔は悪くない。これは自慢ではなく、戦略上の資産として把握しておくべき情報だ。

遺伝子というのは親切なのか残酷なのかわからないが、憎き本山優子が外面に持つ、切れ長の目とシャープなフェイスラインは子である私に受け継がれた。それは口が裂けてでもいえないが、感謝している。サンキュな。

彼女が参観日に清潔なワンピースを纏って完璧な母を演じたように、私も自分の外見を管理することを覚えた。

制服のスカート丈、靴下の折り方、髪の結び方。どれも意図的だ。自然に見えるように意図的に構築している。

矛盾しているようだが、自然さというのは全て作られたものだ。本当に自然な人間など存在しない。ナチュラルなんてみんな嘘。みんな何かを演じている。私が違うのは、それを自覚しているというだけだ。ペルソナを客観的に見れているだけだった。

2年生の1学期が、私の再起動だった。

クラス替えで新しい環境になって、席の近い数人と話すようになった。話すというより、私が話しかけた。向こうから来るのを待っていたら一生かかる。自分から動く。これもあの人から学んだことだ。先手を打て。後手に回った瞬間、主導権は消える。

伏見という子と、八田という子と、あと中村という子。3人は小学校から持ち上がりで、長い付き合いがある。そのコミュニティに外から入るのは本来難しい。でも私には学力という通貨があった。テスト前に声をかけた。「数学、どこかわからないとこある?」それだけだ。それだけで十分だった。

人間は親切にされると、親切を返さなければならないという強迫観念に駆られる。これを返報性という。社会的動物の本能だ。

私は返報性を意図的に喚起した。親切の押し売りだ。ありがた迷惑もいいところ。でも押し売りだとバレない程度に、さりげなく。

さりげなさの演出に、私は人知れず相当な労力を割いた。

さりげなさが溢れる家庭や学校では私は相当な弱者を強いられていた。だから、行動や言葉に隠れるさりげない優しさや打算などを享受できなかった。普通の人が無意識下で身に付けられることを身に付けられなかった。だからこそ、お得意の頭脳で洞察した。