【前回の記事を読む】「教育費」を連呼する母に追い詰められ、3ヶ月間「母がいない場所」へ逃げ込んだ…その結果、転校先でいじめられない為の生存戦略を手に入れた。
3.RAY
撮影場所に着く少し前、マネージャーが手渡してきた薄い資料に目を落とした。雑誌の企画書と、岩塚玲子のプロフィール。
高校入学後、不登校を経験。その後、通信制高校に転じた。専門学校でメイクを学び、現在は家庭を持ちながら仕事をしている。前途多難を抜けた後には順風満帆。言ってしまえばありがちな経歴。
だが、肩書の欄に並んだそれだけの情報が、なぜか視界の中で少しだけ他の文字よりも遅く溶けた。
中学卒業後、不登校。
それだけのことだ。それだけのことで、私の目がその1行の上に余分な時間をかけた。理由を問うほどのことでもない。人の経歴に感傷を覚えるほど、私は繊細な生き物ではないはずだった。
資料をマネージャーに返し、窓の外に目を戻す。街が暮れかけていた。
車を降りると、夜気が首筋を撫でた。
息を1つ、吐く。白く濁って、すぐに消えた。
それから私は顔を作った。筋肉の配置を整えて、目の奥に光を灯す。これで大女優・本山千晴の完成。簡単でしょう。
これも一種の技術だと、いつからか思うようになった。感情が先にあって表情が生まれるのではなく、表情を先に組み上げてしまえば、それが感情の代替になる。卵が先か鶏が先か、ただそれだけだ。俳優として本末転倒な境地かもしれないが、実生活においては非常に合理的だ。
周囲のスタッフに向けて、手を振る。柔らかく、でも堂々と。
「お疲れ様です」「よろしくお願いします」
発声の練習のように、正確な音で言葉を置いた。スタッフたちの顔が一様にほぐれた。こういう反応も、もう何年も見続けている。見慣れれば見慣れるほど、現実感が薄くなっていく。
撮影に使うセットが視界の端をかすめた。白い背景幕と、ライトの群れと、それを取り囲む機材の山。どこの撮影現場も、骨格だけ見れば似ている。変わるのは主役だけだ。今日の主役は私ではなく、メイクアップアーティストとその技術だ。私はその技術を載せる台として選ばれた。
台として機能することに、10年近いキャリアを経た今も、私は特段の抵抗を覚えない。むしろそのほうが楽だと思うことさえある。
スタッフに先導されながら廊下を進んだ。メイク室だと案内されたドアは、他の扉と何も変わらない白いドアだった。
ノックをして、開けた。
最初に目に入ったのは、光だった。
メイク室にしては過剰なほどの照明が、鏡の縁に沿って白く灯っている。その光の中に、小柄な人物が立っていた。こちらに背を向け、メイク道具を整えながら、何か小声で呟いている。呟きはすぐに途切れ、足音に気づいた本人が振り返った。
岩塚玲子は、私が想像していたどの顔とも一致しなかった。