というのも、川名香澄は三島の小説を今まで読んだことはなくても、「作家・三島由紀夫」の名前くらいは知っているだろうし、もしかしたら彼女も読んだことがあるかもしれない。
でも一ノ瀬としては、あまりその期待は持てない中で、今ここで彼女の前で三島由紀夫の名前を出したところで、その後の二人の会話が一ノ瀬の期待に応えるような展開を見せることなどあるだろうか?
川名香澄にとって三島由紀夫の名前は作家としては大家過ぎて、今までの彼女の読書家としての選書の傾向からしても手も足も出ず、彼女の文学に寄せる世界観からするとその文豪の名はそれこそ神棚の上の奥に鎮座まします御札(おふだ)のような存在か?
しかし、仮に川名香澄の顔色に失望の色が表れたとしても、ここは正直に答えるしかあるまい。
「あのう、三島由紀夫の『金閣寺』です」
「えっ、すごい。また一ノ瀬さん、難しそうな本を読まれているんですね?」
「そうですねえ。まあ、三島由紀夫の作品というと、『金閣寺』にしても、特別難解で難しいということはないのですが、余程の探究心がある人でなければ、中々、進んで彼の作品を手に取ろうとは思わないかもしれませんね」
「そうですか……。私なんかはちょっと三島由紀夫さんの作品は怖くて、手が出ないイメージがあるかもしれません」