【前の記事を読む】「まさにピカッと光って、ドンだった」 運ばれてくる怪我人に水を持っていったが「すぐに死んでしまいよるけえ」と…【戦争体験談】
1945年8月6日。広島市の上空から、原爆が落ちてくるのを見たMさん。
彼のいた広島県北西部の町にも、原爆の被害を受けた怪我人が運ばれてきたが、広島市内にいるはずの父からの便りはなかった。
Mさんは当時の体験や思いを、書き記している。
広島は全滅したそうだ
……この世のものとは思えない惨劇を予知しながら大量殺戮兵器として原子爆弾を開発製造した狂人たち。
投下することを命じた、人間の心を持たない白い悪魔。強烈な熱線と放射能で、一瞬にして無差別に多数の人命を奪った残虐な殺戮。極悪非道の極みである。
到底、人間の仕業とは考えられない人類史上未曾有の人為的災厄だった。
無抵抗のあらがう術すら知らない老人、女性、子供を大量に殺戮した理由などあるわけがない。
原爆投下は未来永劫、断じて許せる行為ではない。
黄色人種への蔑視が根底にあっての非人道的で卑劣な手段としか言いようがない。
父が帰ってきたのは5日後
父からは何にも連絡はない。死んだのだろうか。真蔵おじさんやスミおばさんはどうしただろうか。母は広島へ探しに行くわけにもいかず、「お父ちゃんは仕事に出ておって、きっと死んだかもしれんね」と涙を拭っていた。8月6日の原爆が落ちた朝から5日も過ぎた夕方のことだった。
Mはこの日も岸川の家の前の県道脇にしゃがんで父が帰ってこないかと広島方向を見続けていた。夕陽が落ちて黄昏が迫って人通りもなく車も通らなくなった。やっぱり父は原爆で殺されたのではないかと思って、立ち上がりかけた。そのときだった。
見続けていた広島方向から自転車が揺れながらやってきて、Mの前で止まった。降り立ったのは頰が瘦せこけ、無精髭が伸びたままの戦闘帽にゲートル姿の男で、父とは別人としか思えなかった。
だが、「おーいっ!」と呼びかけられた声は、まさしく父だった。
Mは駆け寄って抱きついた。
父は生きていた
幸いにも原爆投下後、五日経って岸川の蔵のなかで一家は再会できた。
運よく父は原爆の落ちた八月六日の朝、勤務先の資材を疎開させていた広島市内から四キロ余り離れた矢の口へ行き、駅で汽車から降りて歩き出したちょうどそのとき、ピカッ! と強い光線を浴びて、頰に熱いと感じるような感覚を覚えたそうだ。
父はすぐに広島へ引き返した。市の中心地にあった勤務先は跡形もなく目茶苦茶に壊されていた。あと片付けや行方不明の親戚や同僚などの消息を探すのに時間がかかり、家族のことも心配だったが、すぐには八重へ戻ってこられなかったそうだ。
真蔵おじは建物のなかにいたので熱線による火傷は免れ、倒れてきた柱のなかから必死に抜け出して市内を自転車を担いで逃げ、疎開していたスミおばの郷里の三次まで自転車をこいで向かったそうだ。
父は放射能で汚染された広島市の中心部には――七十五年間は草木も生えない――と報道されていたので、家族を広島へ連れ戻そうとはしなかった。
空き家を見つけて引っ越し
だが、蔵のなかの生活ではみじめだと思って、翌日には県道沿いの十日市に近い新地に、こぢんまりした一戸建ての空き家を見つけてきた。
そこへわずかしかない家財道具を近所で借りた大八車に載せて引っ越しをした。兄の真一とMは疲れている父を一生懸命に助けて、車の後押しをしたり、荷物を運び込んだりして精一杯手伝った。
Mたちの次の住居は中古住宅で六畳と四畳半の部屋と台所の間取りだった。風呂も便所も屋根の下にあった。
借家の前には道を隔てて大家の雑貨屋があり、その左隣は二階建ての古い旅館だった。裏手には小高い山裾が迫り雑木が茂っていた。父は新居に一泊して家財を片付けただけで、家族を置いたまま一人で広島へ引き返していった。