【前回の記事を読む】パーキンソン病と18年間闘った元看護師の妻。医者が「いつもと変わりありませんね」と言ってくれた翌日に…
第1部 発症してからの日々
第1章 異変と困惑
ある時期、東京都のH市の介護認定審査委員会の委員をしていたことがあります。委員会は市の施設で行われ、我が家からはバスと電車を乗り継いで1時間ほどの所でしたが、足を引きずるようで、行くのに自信が持てないというので私が車で送り迎えしたことがありました。「今思えば」これもパーキンソン病からのシグナルだったのです。
この「今思えば」という思いは、その後の身体障害と認知障害に伴う事件のいろいろな場面で頻繁に出てきました。でも起こることを予知して対応することはとても難しいことで反省しきりでした。
母親がパーキンソン病を発症したという情報は、息子達には伝えましたが、これまで病気とは無縁の、いつも元気な母親が病気!
それも身近では聞いたことがないパーキンソン病! と驚いていましたが、母親が医療従事者だったので、知識や経験を生かして何とかしてくれるだろうとの思いからでしょうか、慌てた様子はなかったように記憶しています。
病名が確定してから3年間ほどは、薬を服用すれば通常の生活ができましたから、これまでと同じ生活を続けました。家の中での生活に問題はなかったのですが、外に出ての歩行では足を引きずるようになってきて何か対策を講じなければと思うようになりました。
そんな折、妻も知っている民生委員をやったことのある知人に会って、妻の病気のことを話したら地域包括支援センターに行って相談してみると良いよ、ということを教えてもらいました。
早速地域包括支援センターに行って妻の病状のことを話し、医療従事者であったことを伝えて、経験豊富な介護支援専門員(ケアマネージャー)を紹介していただき、この方には最期までお世話になりました。
この時点での介護の特筆すべきことは、何といっても初めての車いす生活でしょうか。ほとんどの場合私が車いすを押すスタイルの利用でしたから、妻にとっても私にとっても初めての、そして新鮮な出会いでした。
屋外でも車いすが使えるようになって、もちろん行動範囲は広がりましたし、歩行が難しくなって以来行っていなかったファストファッションストアU店やS店に行けたことが、一番大きな喜びだったでしょうか。
妻の嬉々とした表情からうかがい知ることができました。息子達が小学校に行くようになるまでは、衣服は全て手作りでしたから、衣服に対する関心には並々ならぬものがありましたので。
また、孫が成人になるまでの数年間は、孫の誕生日にU店やS店に行って、決められた予算内なら何を買っても良いというルールを作って、毎年秋に実行していました。
孫が喜んだのはもちろんでしたが、それに付き合って、店の隅から隅まで制限時間なしで見て回り、たまには自分の好みの物を見つけて買うこともあり、その時の満面の笑みは今思い出しても忘れ難いもののひとつです。
特にその後車いすで出掛けるチャンスが減り、パーキンソン病特有の喜びを表情に表す機能に支障が出てからのことを思うとなおさらです。