有楽斎の一生からは、戦国武将として一般に想起されるような、戦場での華々しい武功を読み取ることはできません。
しかし、激動の戦国時代を生き延び、利休に一目おかれる別格の存在として茶の湯を極め、織田家を未来へとつなぐことに力を尽くした生きざまに触れ、「無楽」ならぬ、あえて「有楽斎」と名乗り、人の「輪」と「和」を望んだ心のありようを感じ取っていただけたなら、著者としてこれに勝る喜びはありません。
序章 信長の弟、有楽斎――泰平の世へ至る道
織田長益――剃髪後の号・有楽斎(以降、有楽斎)は、天文十六年(一五四七)、「尾張の虎」と称された織田信秀の十一男として生まれました。すなわち有楽斎は、織田家嫡流(ちゃくりゅう)の血を引く身でした。
父・信秀は、尾張国(現在の愛知県西部)の下四郡(尾張国南部の四郡)を支配する守護代「織田大和守家(おだやまとのかみけ)」(清洲(きよす)織田氏)に仕える身から勢力を拡大し、尾張国屈指の戦国大名へと昇りつめた人物です。
その嫡男である織田信長は、有楽斎の十三歳年長の兄にあたります。戦国時代、その名を全国にとどろかせた信長の実弟として生きた有楽斎の生涯は、戦場では名を馳せることはなかったものの、和議の名手としてその才を発揮しました。
織田信長、そして信長の嫡男・信忠に仕えて戦いの日々を過ごしてきた有楽斎の人生は、天正十年(一五八二)六月二日、本能寺の変によって信長と信忠が家臣・明智光秀の謀反によって斃(たお)れたことにより、大きく転換します。
その後、有楽斎は信長の次男・信雄(のぶかつ)に仕え、続いて、のちに天下人となる豊臣秀吉と徳川家康に仕えることとなります。覇権をめぐる争いが続くなか、和平を実現するために、交渉力と茶の湯で築いた人脈の力を発揮して奔走します。
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