【前回の記事を読む】サイレンの音で目を覚まし、外へ飛び出た…「まさか」という思いで、火の手の方へ向かうと…

惰走は駛走に変わる

浅田と北山は、三村が伊勢佐木町で営む八百屋へと案内された。早朝であるため、まだ店は開いていない。

三村が開けた引き戸から中に入ると、野菜や果物が並ぶ先の奥の小上がりが目に入る。そこには、座布団の上で胡座をかいている着流しの男がいて、老婆と話をしていた。

誰か入ってきたことに気づいた男が、入口へと視線を向ける。その際に、浅田と目が合った。年齢は三十歳代半ばぐらいと思われる。

三村が男を指し示して「新地組の若頭で、平井慶太郎さんだ」と言った。

新地組の組長は高齢で、隠居同然であるという噂がある。つまり、平井は組の方針を決定できる立場にあると考えるべきだった。立場の弱い今の浅田が、一番顔を合わせたくない人物であるのは間違いない。

平井は座敷から降りて雪駄を履いて浅田に近づくと、中折れ帽の鍔(つば)で半ば隠された顔を覗き込みながら「話には聞いてたけど、本当に異国の血を引いているんだな」と言った。

歩み寄ってきた三村に「そんなことより、平井さん、お願いします」と言われると、平井は頷いた。

「ああ、わかってる。こちらの旦那から、借金の形に土地を借りてたそうだな? そこで昨晩、火事が出た。こうなった以上、賠償してもらいたいと言っている」

「そのつもりでしたが、死人も出た以上は畑として使うのもままならない。買い取ってもらうしかありませんって」

平井は浅田に向けた視線を外さずに「いくらだ? 旦那」と三村に聞いた。

「千円は受け取らないと」苦笑いして、平井は三村に向き直った。

「いくらなんでも、ふっかけ過ぎじゃねえか? 東京の日本橋辺りの建てたばかりの上物付きの土地で、やっとそれぐらいだって聞いたことがある。いくらブラフに隣接しているからといって、日本人にしてみれば山の中の不便な土地でしかない。しかも、元々は荒地だったって話じゃねえか。同じってことはありえねえな。六百円がいいところだ」

三村は苦い表情で「……わかりました」と呟くように言う。

平井は北山に視線を向けて「賭場での借金は百円だったな?」と聞いた。すると、北山が頷いて答える。

浅田は「それを差し引いた五百円で買い取ってもらうってことで、いいか?」と聞かれて、頷いた。この場をやり過ごすための手段はそれしかない。

期限について平井に聞かれた三村は「今月いっぱいまでに、お願いしたい」と答える。

平井が「話はまとまったな」と言うと、三村は頭を下げていた。

しかし、平井が強引に決めた買取金額に、納得している様子はない。浅田に向き直った平井は「話がしたい。ちょっと付き合ってくれ」と言って、外へ出るよう促す。