【前回記事を読む】享年29歳――吉田松陰は、死刑執行の日まで高杉晋作に手紙を送っていた…内容は「○○なら、若くても死ね」

天狗の申し子

日本史の大転換期が生み出した狂気の嵐と言える師匠を慕う門人達は過激な死に方で彼を亡くし、揮発性の高い若いエネルギーがいつでも発火しかねない危険な状態にあった。どこに向かってエネルギーを爆発させればいいのか、はけ口を探し求めていた。

晋作と久坂玄瑞は、こうした過激分子、いわば松下村塾党派の首謀者に祭り上げられていたのだった。

生真面目一本槍の久坂は萩でその役割を担おうとし、無頼漢の晋作は江戸で首謀者の役割を担おうとした。

伊藤俊輔は腰巾着のように晋作にくっついて忠実な従者のように振る舞った。晋作は従者役を求めていなかったが、そうして寄り添ってくる俊輔を邪険に扱うこともしなかった。

過激な政治結社とも言うべき松下村塾一派は、桜田門外の変で水戸藩の浪人達に大老井伊直弼が暗殺され、過激分子の粛清が行われると、それに取って代わるように尊皇攘夷運動の片棒を担ぎ始めた。

尊皇攘夷の老舗である水戸藩元藩主の徳川斉昭(なりあき)が謹慎処分を受け、水戸浪人の尊皇攘夷運動が下火になると、長州の松下村塾一派の動きが目立ち始めたのである。

長州藩は朝廷と幕府に倣って尊皇攘夷を藩是に設定し、異国船打ち払い令実行を模索し始めた。晋作はその動きに先鞭を付けようと、仲間を誘って英国領事の暗殺を計画し始めた。

霜が降り始めた一八六一年初冬の京。長州藩邸の奥の院で周布政之介と桂小五郎が二人だけで内密の話をしていた。

松蔭亡き後に久坂玄瑞と並んで塾生から慕われた晋作が英国領事暗殺を企てたことについて周布政之介が桂に知恵を求めたのだった。

そしてこの日の夜。桂は藩邸内で晋作ら松下村塾系の不逞の輩との連絡役を担っている若者を通じて、晋作に今晩大事な話があるから藩邸に来るようにと伝言を依頼した。

晋作より三歳年長の桂小五郎は、晋作の家の近所にある医者の子である。のちに桂家に養子に行ったが、幼少の頃は生家で育てられたから晋作とは顔見知りの仲であり、晋作の憧れでもあった。

桂は晋作を藩邸の玄関で出迎え、自分から軽く会釈した後に「晋作さん」と親しみを込めて呼び掛けた。

晋作は桂と面を突き合わせて話すのは初めてのことで、桂の応接ぶりに驚きながらも悪い気はしなかった。

桂は玄関で草履を履き、晋作の手を取るようにして京の町に出た。

「今日は私が晋作さんを料亭にご案内します。私がよく他藩の要人と会っている料亭です」

晋作は桂が料亭で相当な接待費を使っていることは聞いていたが、京の高級料亭がどんなものか知らなかった。

未だに田舎武士丸出しの晋作にとって、桂が料亭の売れっ子の芸伎と浮名を流している噂をも知っていたが、それがどういうものか想像も出来なかった。