後悔はしていない。

やるだけのことは、やったのだ。

私たち夫婦の人生には、子どもは必要ないということがこれではっきりしたのだから。帰り道、西新宿の高層ビル街の歩道橋を上る足取りが、不思議と軽く感じた。

もうここへ来ることは二度とないだろう。

初秋の東京は、まだ蒸し暑かった。

新宿駅は相変わらずの人混みで混沌としていた。

行き交う人たちは、なぜだかすごく疲れているように見えた。

満員電車の中にうごめいている生霊と同じで〝怒り〟や〝諦め〟が塵と一緒に舞い上がっていた。

なるべく息をしないで、一気にここを駆け抜け山手線の渋谷行きに乗ろうと足を速めたその瞬間、雑踏の中で、誰かが囁いた。

「犬を飼おうよ!」

「ん? 犬?」

それは、あまりに微かな吐息のような囁きで一瞬でかき消されたが、確かに、どこからか聞こえた気がした。

「そうだ、犬を飼おう!」

不妊治療に費やした数年間が、遠い昔のことに感じた。

 

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