しかし、今の俺にとって松嶋先生の身体というのは、完璧だの汚点だの、まるで関係がない。あと三、四年もすれば立派な二重顎になりそうな首筋の消えない皺も、腹の手術痕も、左の足裏にある大きなほくろも、すべてが松嶋先生を構成する大切な要素で、どのひとつが欠けても俺の松嶋先生ではなくなってしまうような気がするのだ。

そんな気持ちが厄介に思えてくるときもある。そんなときにはセックスの相性がいいことからくる、単純な執着心なのだと自分に言い聞かせてみる。

だが効かないマジナイのようなものだ。日に日に、松嶋先生の後ろ髪を引っ張っているものを、この手で断ち切ってやりたいという想いが強くなっていくのだ。住んでいる場所がよくないのかもしれない。

先生の実家は賃貸併用住宅で、先生はこの正月からずっと実家で一人暮らしをしている。たまたま空いた一部屋に俺が越してきて、先生とは世帯は違ってもひとつ屋根の下に住むこととなった。夜が更けてから先生の方が俺の部屋へ忍んでくるのもわけないはなしだ。

だが、逢瀬に気を遣わなくてすむようになった反面、俺は毎週末を苦々しい気持ちで過ごさなくてはならなくなった。先生が婚家を飛び出た当初は会うことが叶わなかった子供たちと、週末はいっしょに過ごせるようになったのだ。

幸い土日は塾の仕事が入っているので、俺は昼間家を空けるが、日が落ちて帰宅すると、大家の住まいの窓灯りが気のせいか普段よりも明度を増している。

去年の暮れから施設に入った認知症の父親も週末は泊まりにくることがあるから、一人暮らしの先生の部屋は土曜の夜だけ一気に賑やかになる。

あの灯りの下、親子三代の団欒があるのかと思うと、自分の部屋に戻る気がしなくて来た道を引き返し、駅前で酒を飲むことがある。

八歳の娘と五歳の息子――。これが先生の後ろ髪を引いている。毎週末、子供たちはDV夫の運転する車に乗って泊りがけでやってくる。いや、最初のうちは二人だったが、すぐに男の子だけになった。

どうやら義父母が娘に、おかあさんはお前たちを捨てて出て行った、と言い含めたらしい。それで娘は八歳なりに考えるところがあったのだろう、自主的に会いに来なくなった……そんな話をするときの松嶋先生に、恨みがましさは微塵もない。

次回更新は5月3日(日)、20時の予定です。

 

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子供を捨てて家を出た…先生はひたすら己を責める。でも、一番責められるべきは、狡猾に暴力を振るうあのDV夫と…

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