プロローグ
一九七〇年三月。
この街に来て二年が経った。今泉俊郎(いまいずみとしろう)は折りたたみ傘をショルダーバッグに入れて、アパートを出る。ロンドン市街は春なお遠く、その日は小雨のばらつく寒い朝だった。
この街の人たちは少々の雨ならコートの襟を立てただけで、濡れることなど気にしない。これくらいの雨であれば、さすがに傘を取り出して差すほどのことはなかった。
ロンドンのチェルシー地区にあるサウス・ケンジントン駅までは、徒歩で五分の距離。地下鉄を乗り継いで大英図書館に向かった。
図書館前の車道はとても狭い。往来するダブルデッカーやタクシーの間をすり抜けながら通りの向う側へ渡る。すると見慣れた顔の同業者が、ちょうど図書館の入口の階段を上ろうとしているところだった。
長身で金髪。ドイツの新聞社から派遣されているペター・シュヴァルツである。俊郎より二年早くロンドンに赴任していた。彼も俊郎と同じく新聞社の海外特派員で、文化欄を埋める記事を書くために、取材先でよく顔を合わせた。
図書館の二階に設けられた小さなホールは、入口の辺りから会見の開始を待つ人で溢れていた。会場の熱気が廊下にまで伝わってくる。
出品される古書がよく見えるように、できるだけ前のほうに座席をとろうと、ふたりは人混みを掻き分けて進んだ。空席は殆ど無かったが、運良く最前列に座ることができた。
今日は、図書館の新しい入荷書籍や寄贈図書の報告の他に、英国王立アカデミー主催の特別展示会の説明が予定されていた。
哲学者ベンヤミンの未発表の評論集の遺稿、フランシス・ベーコンの手稿、それにボードレールの詩集の初版本など、目玉となる希少本が展示されることになっている。それらを目当てに来ている常連の蒐集家の顔も見られる。いつもより多くの人を集めてレセプションが始まった。
古書の業界に詳しいペターが神経質にリストを繰りながら、
「あのポーの『アルンハイムの地所』の草稿は幾らすると思う?」