途中でアシスタントの井上さんが折りたたんでいた拡大地図を広げて、一方をどなたかに持ってもらえますかと依頼した。茅根は自分から申し出て地図の端を持った。

白川は広げられた地図の上から、現在地の馬防柵の位置を示し、織田・徳川陣地、武田勝頼の陣地、連吾川がある一帯を野戦が行われた「設楽原」であると説明した。

設楽原の地名は江戸時代に付けられた名称で、当時はこの一帯は有海原(あるみはら)台地と呼ばれていた。

そして長篠城から有海原台地へと登る小呂道(ころみち)(信長公記ではころみつ坂)が東西に貫かれ布陣地まで続いていたという。

参加者の皆が、目を凝らして地図に見入っていた。それぞれ個人的な歴史観を持って想像を逞しくしていたに違いない。

歴史小説から歴史ファンになった者は多い。茅根もその一人だった。

茅根と同年代の者には国民的な人気作家、司馬遼太郎の作品に影響を受けた者が多い。司馬は戦国ものや幕末ものや明治の近代国家形成期に尽力した人物像を描き、歴史に対する見方に斬新な息吹を吹き込んでくれた。

『街道をゆく』などの書籍では個性豊かな歴史観、いわゆる司馬史観を披露してくれた。読者の歴史に対するロマンを刺激し、その語り口は歴史ファンを魅了した。

長篠合戦については、小説『国盗り物語』において鉄砲による交代射撃を信長の新戦略として高く評価している。

参加者は皆、現地の地形に目を見張った。丘陵と低地が続く台地で土地の高低差がよくわかる。合戦当時、台地の間には豊川に流れ込む川がいくつかあり、豊川に近づくと深い谷ができていた。

今でこそ一帯は田野で見晴らしのきく空間を形成しているが、当時は起伏が多く周りを山に挟まれた狭い場所だった。

しかも低地を流れる連吾川の岸辺は、当時は湿地帯だったという白川の説明もあった。配られた資料には『甲陽軍鑑』の引用文があり、この戦場は馬を十騎並べて乗るところではなかったと記されていた。

また、『信長公記』では「節所」という言葉が語られているとあった。茅根の頭の中には「長篠合戦図屏風」が浮かび、武田騎馬隊が勇壮に攻める構図を想像した。

田圃の畦道に沿って歩き戦場跡を眺めていると、馬蹄(ばてい)の響き、馬の嘶(いなな)き、兵士の喊声(かんせい)、銃声が聞こえるような錯覚を覚えた。

 

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