そんな寂しさに暮れている中で迎えたインターナショナルスクールでの初日、日本の学校と全く違う環境や文化に動揺する私の姿をみて、隣に座る女の子が私のノートに「木」の絵を描いてくれました。
彼女はアフリカの女の子で、もちろん日本語は話せません。
彼女は、私の目を見て、一所懸命それが”tree”なんだと教えてくれました。言葉が通じないのに、私は確かに彼女とコミュニケーションを取っていました。
なんとも言えないその感覚。そこには、コミュニケーション、いや、むしろ言葉以上の大切なメッセージが詰まっていた気がします。
当時の私たちは、相手のちょっとした仕草や距離感などを常に感じ、相手の気持ちを察し、相手の考えていることや、抱く感情をも想像していました。
・顔や眉毛、シワの動き
・目線や息遣い
・口の開き具合や表情
・声の大きさ、太さ
・言葉の言い方や長さ、使い方
・立ち方、歩き方
・間の取り方や距離感……など手紙でも行間を読み、筆圧を見て、どんな気持ちが込められているのか考えたものです。
これら全てが、相手を理解しようとする大切な手がかりだったのです。
当時は「相手」とのコミュニケーションの時間は限られていて、相手のことを考えたり、想ったりする時間がたくさんありました。
学生時代には、部活の仲間と喧嘩した日には、放課後、暗くなるまで寄り道をして、友人たちに相談に乗ってもらったことをよく思い出します。
家には電話は1台しかなく、「緊急の電話が入るかもしれないから、話すなら学校で話しなさい!」と長電話は禁止されていました。
キャッチホン(割り込み電話)が導入された時は、なんて画期的なんだろうと喜んだものです。
とはいえ、あの頃長電話は望ましくない行為とされ、当時の学生にとって、放課後の友人との相談タイムはとても貴重な時間でした。
帰宅後は、やり場のない怒りを文章にしてみたり、手紙に書いては破ってみたり、「自分は悪くない!」と思ってみたり、謝る練習をしたり……。
次の日までの時間、いろいろなことを考えたり、感情とぶつかる時間が多かった分、相手の気持ちを想像したり、自分自身のことを考えたり、期待したり、反省したりと、ややこしくも、その時間は本当に貴重でした。
今思えば、この「考える時間」こそが、自分や相手の価値観や感情の違いを知る大切な学びの時間だったのかもしれません。