(おやすみ、って言えない。答えたら、全部崩れてしまいそうで)
翌日から、よし子は沙織の行動が目につくようになった。朝、雅彦にコーヒーを淹れてあげている沙織。庭で雅彦と笑い合う沙織。帳場で雅彦と何やら書類を見ている沙織。
そのたびに胸が締め付けられた。自分がみじめだった。あんな綺麗で若くて成功した女性と比べられたら、私なんて。
節子の言葉が頭から離れない。「旦那さんのこと、好きだったのよ」——前の奥さんが生きていた頃は何もなかった。でも今は違う。雅彦は再婚した。そして沙織は、まだ独身だ。
「考えすぎよ」と自分に言い聞かせた。でも、その日の昼、決定的な場面を見てしまった。
厨房から裏庭に出ようとした時、物陰で沙織が雅彦の腕をつかんでいた。何か真剣な顔で話している。雅彦は困った顔をしていたが、振り払おうとはしなかった。
沙織が雅彦の手を両手で包んだ。
(見てしまった。見なければよかった。見なければよかったのに)
よし子は音を立てないように、その場を離れた。膝が震えていた。厨房に戻ると、手に持っていた皿が滑り落ちて割れた。
「大丈夫?」
節子が駆け寄った。
「大丈夫です。手が滑っただけ」
しゃがんで破片を拾いながら、涙がぽたぽたと畳に落ちた。節子は何も言わず、黙って一緒に破片を拾ってくれた。
(節子さん、何も言わないでいてくれている。気遣ってくれているんだ)
夕方、部屋に戻って窓から山を眺めた。あの山を初めて見た日のことを思い出す。ここに来れば何かが変わると思った。実際に変わった。雅彦に出会い、恋をして、結婚した。人生でいちばん幸せな時間だった。
でも今、その幸せが足元から崩れていく気がする。沙織の存在が、小さな亀裂のように2人の間に入り込んでいる。
よし子は鏡を見た。48歳の自分が映っている。目尻の皺。日に焼けた肌。飾り気のない髪。
(こんな自分で、雅彦の隣にいていいのだろうか)
こんな自分で、雅彦の隣にいていいのだろうか。その問いが、ぐるぐると頭の中を回り続けていた。
次回更新は4月4日(土)、21時の予定です。
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