雅彦がよし子の笑顔を見て、困ったように眉をひそめた。
「そんなに笑わないでください」
「笑っていますよ、あなたも」
「……笑っていません」
「笑っています。口元が上がっています」
雅彦は急いでコーヒーカップで口元を隠した。よし子はそれを見てまた笑った。
(こんなふうに笑えるなんて、思っていなかった。雅彦さんと一緒だと、ついつい笑ってしまう)
また別の朝、節子に見つかった。
台所の前を通りかかった節子が、2人が並んでコーヒーを飲んでいるのを見て、一瞬だけ目を丸くした。でも何も言わなかった。ただ「ご苦労様です」と言って通り過ぎていった。
後からよし子に耳打ちした。
「旦那さんが、あんなに人間らしい顔をするのは初めて見たわ」
「え?」
「コーヒーを飲んでたでしょう。あの顔、真由美さんが生きてた頃以来だわ」
よし子は何も言えなかった。胸が温かくて、それが少し辛かった。
(私は前の奥さんの代わりじゃない。でも、この人の笑顔を取り戻せているなら、それでいい)
買い物に行く時も、2人でこっそり出かけるようになった。旅館から車で20分の小さなスーパー。よし子がカゴに食材を入れながら、雅彦がついてくる。
「これ、よし子さんが使うやつですか」
「これは旅館の食材です。」
「このお菓子は?」
「……美咲に送るんです」
「じゃあ、僕の分もください。大輝に」
よし子は少し考えた後、同じお菓子を2袋カゴに入れた。雅彦が満足そうにうなずいた。
(おそろいのお菓子。なんか……家族みたいだ)
帰り道、車のラジオから古い歌謡曲が流れてきた。懐かしい曲だった。雅彦が小さく口ずさんでいるのに気がついた。
「好きなんですか、この曲」
「妻が好きでした。よく鼻歌を歌っていた」
「……きれいな声ですね」
雅彦がラジオを消した。