仏教弾圧
白河上皇は「朕の思いのままにならぬのは、鴨川の水と、サイコロの目、そして比叡山の山法師」と嘆いた。中世の僧侶の武装した者は、僧兵とよばれ、寺院もまた堀をめぐらし、矢倉のような物見台を設け、城郭化した。当初は寺領としての荘園を守る為だけだったが、やがて領主と争うようになった。
当時の武将、上杉謙信は、不識庵(ふしきあん)、武田信玄は機山(きざん)、などと仏教徒としての名を持ち、殊勝な態度をとっていたが、信長は武装した仏教徒に対して徹底的な弾圧を加えた。
比叡山の焼打ち、一向宗の盛んな北陸地方では、大きな家に老若男女の門徒を押し込め、焼き殺した。その数は数万人に及んだ。これに対して暴戻な魔王、天魔波旬の所行、などと日本中に非難が嗷嗷(ごうごう)と湧き起こった。
信長の所行に対し、冷静に、「信長の弾圧は残酷だが、僧侶の凶悪を除いたのは、大きな功績である」と評価したのは、江戸時代の歴史家、新井白石である。
一方、信長は万里の波濤をこえて日本に来たヤソ教の宣教師(伴天連=パードレ)を愛した。日本の僧兵とちがって、熱心な信仰心を持つ彼等を庇護した。また彼等の西洋の知識を聞くことを好んだ。彼等が地球儀を示して、地球が丸いことを説くと、ただちに理解した。
一方、彼らがしきりにデウスと云うのを聞き、「デウスとは何か」と問うと、デウスとは、この天地を創造した天主です、と答えた。ヤソ教は天主教とも云っていた。信長はこれを聞くと大いに感動し、安土城の中心の城楼を天主閣と名づけ、そこに自ら住まうことにした(通常の天守閣は、敵に攻めよせられた時、立て籠って防ぐ矢倉である)。
これについて宣教師ルイス・フロイスは、「悪魔的傲慢」であると書いている。信長の後の、秀吉は豊国大明神、家康は東照大権現の神号で祀(まつ)られたが、これは日本的なものである。
安土城は焼けおち、信長は、建勲神社(京都)に祀(まつ)られている。