アルコールは脳細胞を破壊し、痴呆となっていた。あるとき、彼女がよろよろと壁につかまりながら廊下を歩いていた。そのうち便と尿を垂れ流した。ひどい悪臭である。誰かが看護師さんを呼びに行った。
本人は何が起こっているのかもわからない。「あわわ……」と口を半開きにしているだけである。恵子はちょうどその光景を目撃した。ショックだった。まかり間違えば、恵子は彼女だったのである。
お酒というものの怖さが刻印された。どんな高説より雄弁である。断酒の動機として、もうあれだけで十分だった。
恵子は、うつで通っている精神科の主治医にAAのことを相談した。あっさり、「だったら通わなくていいんじゃないですか?」といわれた。この医師は、AAや断酒会に参加しなくても断酒に成功した人を何人も知っていると語った。
千里浜では、「AAに参加しなくなる=再飲酒」と固く教え込まれていたので、恵子は拍子抜けした。気も引けた。だが、やはりAAに行こうとすると気持ちが沈む。思い切って辞めてしまった。
結果的には、恵子はどこにも通わず、ひとりで断酒に成功した。退院してから一滴も飲まなかった。千里浜には、二回目、三回目の入院という女性患者も少なくない。それくらい断酒の道は厳しい。
恵子の場合、元々お酒が弱かったこと、飲酒していた期間が短かったことが幸いしたようだ。
恵子は昼間は近くの図書館に通った。仕事をしているときは必要に迫られて資料となる本を読んでいたので、自分の興味のまま本が読めることが嬉しかった。朝から夕方まで自習室で読書三昧。
こうして学んでいると、職を失った悲しみは少しずつ薄らいでいった。たとえ元のようにフルにスキルを活かした再就職ができなくてもいいかもしれない。自分にできることを一生懸命にやっていこうという心持ちになっていった。何より、大事な家族の絆がとり戻せたのだから、ぜいたくはいうまい、とも思った。
だが浩との間はギクシャクしていた。浩にしてみれば、恵子に代わって家事・育児を担うことになり、残業ができなくなった。
そんな人間は記者として使えない。浩は人事部に異動になっていた。妻の病気のせいで、自分がやりたい仕事ができなくなった。「いいよな、ビョーキっていえばなんでも免除されるんだから。こっちは昼間働いて夜は家事・育児だよ」。
そんな言葉も口をつく。だが、浩は、かつてはそういう生活を恵子に強いてきたことに気づかないのだろうか。女は残業をして必死にがんばっても出世はたいしたことがないが、男は世間でも評価されるような記事を書き続ければ編集のトップに就くことも夢ではない。
比較的男女平等に理解がある浩でも、女性の職業的成功に限界があることを当然視しているようで不快だった。いい返したいが、恵子の方にも浩への後ろめたさがあり言葉にできなかった。
そんな風に心がすれ違った浩が、夜、夫婦の営みを求めてくることが恵子には苦痛だった。だが、これも断ってはいけないような気がして耐えた。一番辛かった。
試し読み連載は今回で最終回です。ご愛読ありがとうございました。
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