「約束が違う。そんなに外を放っつき歩きたいのか!」と。いつもの階段下となりましたが、春まだ遠い冬のような寒さは心までも凍らせてしまいます。何とか体を休め少しでも眠らないと翌日の仕事に差し障りますから、新聞紙や段ボールを探してきてお尻の下に敷き、さすがに地下街などで寝泊まりする方たちのようには眠れませんので、座ったまま壁にもたれかけ眠るのでした。
翌朝、長男の部屋の窓から声をかけ様子を聞くと、「ひどく荒れているから入らない方がいい」と長男の返事です。雨がずっと降り続いて寒のもどりを思わせる寒い日です。もう、雨と寒さに身も心も冷え切って、何も考えられなくなっていました。
昭和五十年に義兄宅へ逃げた時から十八年たっています。義兄も平成四年に亡くなっております。
私の身内や学校の同級会の通知などの電話であっても、以前所属していた信仰組織と全て結びつけられ、そのたびに暴力を振るわれていましたので、身内や知人等とは一切縁を絶っておりました。誰とも音信も行き来もできなかったのです。
しかし、この時は、もう耐えられなくて、長い間不義理をしている都内に住む母方の伯母がいましたので、訪ねてみようと思いました。長男に「母さん、とても辛いから、伯母さんに事情を話し泊めてもらおうと思う」と言って、家を離れたのです。
自分ではどうしたらいいのかわからずに、今までは子供たちを巻き込みたくないと思ってやってきたのです。でも、気づかず、情けなく悲しいことに、精神的に子供たちを巻き込んでいたのです。自分のことで気持ちがいっぱいだったのです。
そのことに思い至らなかったのでしょう。何もできない自分であることにも、我ながらどうにもできない無力さを知るのでした。
私が頑張ればと……しかし、限界に近づいていました。もう家を出るしかないと思いました。
異動前の忙しい中でしたが、その翌週の月曜日、半日休暇をいただいて、「東京都女性相談センター」を訪ねました。
頼みの綱の「駆け込み寺」と言われる施設です。しかし、フルタイムで働ける確かな職業を持っており、その施設に入所しながら、職場に通勤はできないとのこと。その支援体制の中では施設に入ることは叶いませんでした。
翌日、長男に相談しました。「もう母さん我慢することないよ。家を出ろよ」と、短大を卒業して家にいた長男が、一緒にアパートを探してくれました。
また、異動の辞令交付の時に困るだろうと、着替えのスーツを持ってきてくれたのです。痛々しいまでに心優しい息子です。どんなに心が痛んだことでしょうか、胸が張り裂ける思いでした。