そこにはもう1人いました。高校の先輩でブラスバンド部の高橋翔でした。高橋書店の一人息子であり185cmの痩せ型で小顔の翔は、笑顔で淑子に語り掛けてきました。

「淑子、行かないでくれ。就職が決まった。僕と結婚しよう!」

淑子はめまいがして立ち上がりかけたベンチに引き戻され、発車ベルも聞こえません。

翔は2つ上でファゴットの指導のため淑子たちにたびたび会っていて、お見合い話があったときに、唯一相談した相手でしたが、就職面接が終わりやっと東京から来たのです。

団圃氏とのお見合い結婚を決意したのに、翔が目の前に現れ固い気持ちが雪解け水のように変化を見せました。

「これから花嫁列車に乗るのよ。もう遅いわ」

艶やかな髪飾りの淑子は、伏し目がちに小声で話しました。

「2人で見た『卒業』を思い出さないか。君の左手の薬指に結婚指輪を見る1秒前まで、君は自由なのさ」

翔の言葉に淑子は胸の奥がキュンとしました。

「翔」

「淑子」

互いの名前をささやきあうと、翔が淑子に接吻しました。

淑子は胸の中に熱いものが広がり、心の中から団圃氏が消えてしまい、目の前の翔しか見えなくなったのです。

私、翔と結婚しちゃうのかも。しかし、花嫁列車に乗り込む丈太郎や八重子、それに同級生や親族のことが頭をよぎり、甘い感情を振り払うように言いました。

「翔、だめよ。私は結婚するんだから。『卒業』からは卒業よ!」

「淑子、結婚するって言うけど、結納(ゆいのう)は済んだの?」

一瞬、言葉に詰まった淑子でしたが、強がりを言いました。

「そんなの、現代では省略するのが流行(はや)りなのよ」

しかし、結納の話で淑子の心の中に急に不安が広がりました。2人には発車ベルの音が聞こえなかったようです。そこに、息を切らせて耕太郎が到着しました。

入り口の耕太郎を見た淑子は、握り合った手を無理やり解きました。

「淑子さん」

耕太郎は知らない若い男が淑子に寄り添っていることに、不安と胸騒ぎを覚えました。

「あっ、耕太郎おじさん」