音が消え静寂は時をも消し去りそうだ。温かな霧状の煙がうっすら工藤の顔に降りかかった。意識を保とうとするが朦朧としてくる。そのうち眠気がやってきて現実と仮想の世界を曖昧にした。工藤は揺れながら深い谷へと落ちていった。

背中に痛みを感じ、目を覚ました。ぼやけた視界に文字が書かれた黒板が見える。その前で担任の前田が何かを話していた。

両腕を重ね枕にしていたため、腕がしびれている。ガラス越しに見える校庭では、1年生と思しき男子がハードルをしていた。

「おい工藤、水谷とはどうなんで? デートしたって噂聞いたぞ」

後ろを振り返ると黒田が人の背中に定規の先をあてていた。よき友人でもあり、同じ山岳部のメンバーでもある。

工藤はあくびをして、小声で黒田に答えた。

「何もねぇよ」

視界に映る景色は、工藤にとって涙がでるほど懐かしいもののはずだった。20年ぶりの教室、落書きだらけの机、クラスメート。二度と戻れないと思っていた風景に身を置いている。

もちろん微かな意識はあった。自分は今、未来から戻ってきている。前田がいずれ教頭になったことも、黒田が地元で警官になったこともわかっている。だが不思議なことに、この景色へ溶け込んでいる自分に違和感がなかった。続いている日常の感度が自然と自分の中に組み込まれている。

だから2列向こうの愛子を見ても高ぶりはしない。幼い頃から培ってきた染み入るような愛情は胸にある。だが同時に毎日会っている感覚も備わっているから、衝撃も感涙もなかった。