なぜ登るのか?そこに山があるからだ

岳人の系譜

「そこに山があるから」というフレーズは登山を趣味としていない人びとにも広く知られている。

1924年、エベレスト初登頂を目指して、山頂付近で消息をたった英国の登山家ジョージ・マロリーが「なぜあなたはエベレストに登りたかったのか」と問われて「Because it’s there」と答えたことが日本語訳で「そこに山があるから」と訳され流布したためであろう。

マロリーは「そこにエベレストがあるから」と答えたのであるが、訳出上、結果として有名なフレーズとなった。マロリーはエベレスト登頂の記念に妻の写真を山頂に残すと述べていた。現在も山頂に写真は見つからないが、1999年に標高8100メートルで見つかったマロリーの死体の携帯物にも妻の写真は見つからなかった。

山頂に妻の写真が見つかればエベレスト山頂に最初に辿り着いたのはマロリーということになる。

登山の愛好者であった私の先輩故N先生は自分の登山経験などを「山のあなたの空遠く」という書物に残している。カール・ブッセのドイツ語の詩を上田敏が訳した

「山のあなた」の名訳は有名であるが、山の彼方に幸いが住むという人に尋ね歩いて涙ぐみ、さらになお遠く幸いを求めるという情緒豊かな詩編である。

N先生は遠来の山仲間を案内して札幌の奥山、余市岳に登山した情景を記述している。札幌市内からは余市岳の山頂は見えないが、少し高台になっている江別市の大麻方面から札幌市に向かう途中、手稲連山のかなたに白井岳、余市岳、朝里岳の連山が姿を見せている。

手稲連山の雪が消えた春にはまだ真っ白な余市岳のピークを望むことができ感動的である。空が澄んでいて運が良ければ札幌を包むような山々の連なりの彼方に無意根山の白い稜線が姿を現していることもある。

私は江別市から札幌への自動車道を一年を通して車を走らせているが、余市岳を望むたびに、ブッセの詩とN 先生の「山のあなた」を思い出すのである。特に真っ白な余市岳や無意根山が姿を見せている時期にはこの山々にある種の神々しさを感じるのである。

まだ緑吹かない土色の札幌を囲む連山の彼方に姿を見せる白い山々には N先生が登山の醍醐味に幸いが住むという思いを込めた力作を出版した意味が込められているように思うのである。

N先生は4人兄弟の長男で3人の弟たちはみな登山を好んでいたが、弟の一人が日高山系幌尻岳登山中滝壺に転落死した。優れた頭脳の持ち主で好人物であったので惜しまれてならないが、北大山岳部の日高山系では雪崩による大遭難事故が過去に2度もあり、多くの命が失われている。

それでも、山の彼方に達成感を求めて多くの岳人が「そこに山があるから」困難な山岳登山に挑戦し続けている。