自分では気付いていないが、彼には小説家としての才能があった。しかしそれは、商業作家としての成功を意味しなかった。
小説や映画は、暗かったり、内容が分かりにくかったり、タイパが悪かったり、ハッピーエンドじゃないというだけで、世間から敬遠されるようになった。
そのような傾向が年々強くなっているように感じる。明るく手軽なものを賞賛するような風潮も同様に。
テクノロジーの発展が巻き起こした社会の急激な変化によって、人間の無意識が望むことが少しずつ変わってきていると思った。
現実社会が複雑で難解だからこそ、フィクションの世界に明るさや単純さを強く求めるように。そうして、文学や芸術の持つ複雑性や多様性は失われていく。
その証拠に、どれだけ素晴らしい文学作品や芸術作品が生まれても、スマホの画面に視線が注がれる時間は増える一方だった。
そして、映画は鑑賞ではなく早送りで消費され、文学は初めから無かったかのように敬遠され、芸術は表現の自由が奪われていた。
「今回も売れそうにないけど、その画家みたいに狂うなよ」
僕は、彼の書く小説が好きだ。全体的に暗くても、その分、時折見える光の明るさが際立っていた。
絶望の分だけ希望は煌々と輝き、喪失の分だけ出会いは光彩を放った。
彼の書く物語はいつだって、僕の中の分からない何かに、分からない鼓動に、理由と意味を与えてくれた。
「縁起でもないこと言うな」
榎本君は、なぜか嬉しそうにそう言い、コーヒーカップの縁に反射する光を一瞬不思議そうに見た。
「そういえば、土橋の方は終わったのか?」
「ああ。さっき納品できたよ。……クライアント先のセキュリティシステムが脆弱でかなり時間が掛かったけど、なんとかね」
近年、世界中でサイバー攻撃による被害が多発しており、多くの企業や組織にとって、機密情報を守ることが喫緊の課題となっていた。
その影響で、フリーのプログラマーである僕の元への、企業や団体からのセキュリティ対策の依頼が後を絶たなかった。
クライアントの依頼は、コンピュータセキュリティのハードウェアの設計からソフトウェアのプログラミング構築まで多岐にわたり、業務の遂行には、ITやプログラミング言語への深い知識と高度なスキルが求められた。
そのような骨の折れるハードな仕事を、たった一人で行っているのには、誰にも言えない秘密があった。
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