まえがき

『アートに恋して』第一集が出版されてから、三年と九ヶ月が過ぎました。

この第二集でも、長野県の南部を中心に発行されている南信州新聞のコラム(令和三年から七年)に掲載された「この時季聴きたいあのヒット曲」というタイトルのエッセイとショートストーリーを季節ごとにまとめました。

日々の空き時間に、手に取っていただけたら幸いです。

第一章 春

ポピー

♫『圭子の夢は夜ひらく』(藤 圭子)

転んで、顔に怪我をして、病院に駆け込んだ。

他界した義母の葬儀会場を下見した際のことだった。駐車場から建物に向かって、早足で歩いた。歩道との間に、僅かな段差があるのを見逃して、躓いたのだ。

後ろ手に組んだ手で、リュックの底を支えて歩いていて、あたかも、手足を動かせない人形のように、直立したまま、バタンと前に倒れた感覚だった。

手をつくより一瞬早く、顔面が落下した。酷い出血というほどではなかったが、額と右目の周りから、じわっと血が出てくる。

病院の鏡に映った顔に、花が咲いているように見えた。額には、赤いヒナゲシ。目の周りには、赤いオニゲシ。オニゲシの中心は暗い色で、黒い瞳に見える。

皮膚科も形成外科も始まっていないから、と言うスタッフに、整形外科に案内された。

「消毒して、テープを貼ります。あ、お化粧してますか?」

孫のような医師に頷いた。

「家に帰って、顔を洗って、自分でこれを貼って。二、三日したら、貼りなおして。キズパワーパッドを薬局で買って。できなきゃ、ここに来れば、僕が貼ってあげるけど」

私の顔の花の形に切り取ったテープを渡された。

次の日、緑色の部分と、紫色の部分が何ヶ所か顔に出現した。

三日目に、キズパワーパッドに貼り替えた。緑色と紫色の部分は、小豆色に変わった。小豆色のアイシャドウをはみ出して装ったような顔で、葬儀に臨んだ。

数日後に、パッドをはがすと、傷の部分は乾燥していた。目の周りのでこぼこが左右不均衡ながら、マスクのお陰で、目立たない。

そういうわけで、最近インパクトのあった花は、ケシだった。ケシの花はポピーとも呼ばれ、咲くのは五月頃だ。

昭和四十年代に、ケシの花が咲く、と歌っていたのは、藤圭子だった。

『圭子の夢は夜ひらく』を若い頃、よく耳にした。タイトルや歌詞はともかく、藤圭子は、プライベートでは、いくつもの夢を叶えた、類いまれな人に違いない。才能豊かなミュージシャン、宇多田ヒカルを産み、育てた人なのだから。

「頭を打った方へ」と書かれたプリントが目の前にある。

「頭を打った一〜二ヶ月後に、次のような症状がある場合、ご相談下さい。手足に力が入りにくい。上手く歩けない。顔面や手の左右差が出る」と続く。全部当てはまる気がする。

ガラスの花瓶に入れた黄色いミモザの小花が、春の到来を告げている。(令和六年四月五日)