【前回の記事を読む】「家に1人にして、行為に及んだら取り返しがつかない」…睡眠薬で眠らせている間に用事を済ませ、いつも一緒にいるようになった。
言葉のサラダ
患者の中には誰彼となく話しかけてくる者もいる。一人の女性はいつも泣きながら、白衣のドクターを見つけると「先生」と呼び止め、今自分が苦しんでいることを延々と述べ、ドクターの腕にしがみつくのだった。
一度徹もこの女性に話しかけられ困惑した覚えがある。女性は自分がさっきまで飲んでいたジュースを徹に差し出し、「これ、美味しいからあげる」と言って徹の口元に差し出した。
「ぼくは今喉が渇いていないから、大丈夫です」と、女性の機嫌をそこねないよう丁寧に断った。
夏海との生活の中で、徹は精神を病んでいる人に拒否をしてはいけないということを学んだ。ほんの小さな拒否が、彼らには自分の全人生を拒否されていると思わせることがある。
人間はいつも誰かに認められたいという願望を抱き生きている。幼い頃、母親の気を惹きたくて悪さをするのもその一環だと徹は何かの本で読み、きっと夏海にもその本能は残っているだろうと思い、拒否をすることを一切やめた。夏海がどんなちんぷんかんぷんなことを言っても、徹は自分なりに答えを導き出し夏海に接していた。
夏海がドクターのカウンセリングを受けている時間は、徹にとってほんの少し気が休まる時間帯だった。何せよ相手はプロなのだから、夏海を傷つけることは決してない。その安心感が徹にはありがたいものだった。
小一時間のカウンセリングの間、徹は病院の待合ホールで他の患者を観察し、いつかは夏海もこのような行動に出るのだろうかと思いながら、その時自分はどう振る舞えばいいのかシミュレーションをしていた。
その日も徹は夏海を連れて精神科に出向いていた。ドクターに夏海を預け、徹は待合ホールの小型テレビを何気なしに観ていた。すると、画面の上部に速報のテロップが映し出された。
神奈川県S市の身障者施設で殺傷事件があったというニューステロップだった。先ほどまで食の話題で盛り上がっていた映像は、いきなりその身障者施設に切り替わり、テレビの中の歓声は消え、代わりに沈痛な面持ちのキャスターが映し出された。