ええ。大学卒業まで兵庫県の実家にいました。

いえ、神奈川県に来るのはもっとずっとあとでして、大学のあと転々と……ね。

もう今年で五十歳ですから。そうです。紆余曲折がありましたね。それをこれからかいつまんでお話しするのはかなり大変ですが、頑張ります。

両親は、はい、おかげさまで健在で、兵庫県にいます。姉と弟がいまして、わたしは三人きょうだいの真ん中です。家族構成はそんな感じです。

さあ、何からお話ししましょうか。あ、いまはざっくりでよろしいですよね。

ええ。この病気で初めて病院にかかったのはですか?

二〇〇四年の春頃で、ちょうど三十歳になる手前の頃で、先ほどもお話ししましたように不眠の症状がありましたが、きちんと病院に行かずに放置していたんです。

初めてちゃんと治療を受けたのは北海道にいたときでした。そうです。大学卒業後に、転々として、流れ着いた北海道に三年ほどいたときに、体調を崩しましてね。十勝の山際の、小さな診療所に入院しました。それが最初でした。

そのときは、パニック障害――強い不安や恐怖からくる動悸や息苦しい症状のそれじゃないかって入院先の専門外の医師からお話があって、ちょうど体調がどんどん悪くなる感じでしたので、転院したほうが良いと聞いていました。それで、気がついたら病院を移っていて。そうです。そのときのことはおぼえてないです。

このときのことだけじゃなくて、それ以前の記憶も曖昧で……。

何ヶ月くらい入院していたかですか?

それは四十日でした。転院の手続きをしてくれた医師から、強制的な医療保護入院ではなく任意入院なので、自分の意思で退院できることを聞いていたので、自分から申し出て退院しました。その理由は覚えていませんが、早まったのかなと振り返ります。

ええ。そのあと、退院したあとは、北海道から一旦実家のある兵庫県に戻りました。その頃の両親は兵庫県から東京都へ転勤で移って実家は空き家でしたので、そこで療養しました。それが二年くらいありました。そのあと少し元気になって、都内に住む両親と暮らすことにして、関東に移りました。 父が、仕事を見つけてきてくれたんです。

それが、あのときは仕方がなかったとはいえ、いまとなってはわからない判断ですけれど。

なぜそう思うのかですか?

それはですね、福祉という社会の手に、わたしの手が届くのがどんどん、どんどん、遅れていくわけです。社会の仕組みにたどり着けず、このあとわたしはひとりで悶々とすることになります。

それは良かった点もあるし、苦労したなって思う点もあります。自分が頑張ってしまったために、わたしの病は社会から隠されてしまったわけです。頑張ることの盲点ですね。

 

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