外の凍てついた冬の空気とは違い、ストーブで暖まった指導センターの中で茶をすすっていると全身の力が抜ける。川田は壁にかけられた厳冬の剱岳の写真をぼんやり眺めた。眺めながら、今自分がその氷と雪を鎧のごとく纏った頂を目指していることが、何やら現実とかけ離れた世界のことのように感じられた。
川田は茶を飲み終えると、さらにもう一杯湯呑みに茶をついだ。この茶を飲み終えたらいよいよあの壁に掲げられた厳冬の冬剱の懐に入り込むことになる。凍てついた氷と岩の世界に。自分はそれを求めてここにやって来たのだが、しかしストーブが煌々と焚かれた暖かい部屋で茶をすすっていると、この弛緩した時間をいつまでも続けたいというような、そんな矛盾があった。
「雪の状態はどうですか」と、鬼島がまだ事務机の前で書類を整理している若い警備隊員に聞いた。
「だいたい去年と同じくらいですわ。一昨年の暖冬に比べたら多いですよ」
先行している二人パーティーは、トレースのない白萩川河岸、小窓尾根下部の深雪をどこまでラッセルしているのだろうか。いずれにせよ、我々が追いつくのは時間の問題で、四人でラッセルをすることになるのだろう。川田はストーブを見つめながら、これから冬剱に入るという緊張がふつふつと湧くのを感じ、じっと茶をすすり続けた。
「さて、そろそろ行こうか」という鬼島の言葉に促され、川田は手に持っていた湯呑みをお盆に置き、奥の居室に向かって「ごちそうさまでした」と声を張った。奥から先ほど茶を給仕してくれた年輩の警備隊員が再び姿を現し「くれぐれも気をつけてくださいね」と見送ってくれた。
指導センターを出るとまた再び凍てついた空気が肌を刺した。階段を降り、先ほど放置したザックに手をかけようとすると、鬼島が、「ワカン(かんじき)をつけよう」と言った。川田と鬼島はザックにテープで括りつけていたワカンを取り外し、ブーツに装着した。そしてザックの上部に捻じ込んであったゴアテックスのハードシェルジャケットを上半身に羽織った。
天気も良く、まだしばらくは汗をかくであろうが、ラッセルをするのであれば雪にまみれるので、コットンシャツだけで行くわけにはいかない。
ザックの口を閉じ、天蓋を被せ、背負う。先に準備を終えて川田を待っていた鬼島が、「じゃ、行くぞ」と声をかけ、二人は雪の中に足を踏み入れた。
次回更新は1月6日(火)、8時の予定です。
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