上着を着て、長倉の登攀道具を入れたビジネスバッグを手に取り、菓子折りの手提げと鬼島のデポ品を入れたバッグを持ち部屋を出る。

駅まで出ると、まずは長倉の実家へ向かうため、いつもとは反対方向の電車に乗り込む。荷物すべて網棚に乗せ、スマホの新聞を立ち上げる。女子高生の騒音が癇につくが何とか企業欄にたどり着くと取引先の記事があり、スピードを落として読み込む。

やがて車窓が明るく開けてきたことに気づき、丘陵の緑がさらに間近に迫るようになった駅で降りる。通勤時間帯を過ぎた駅前広場は閑散としていて、メモしておいたバス乗り場を探すと、ちょうどバスが止まっている。

昼前に住宅地へ向かうバスは客も少なく、二人掛けを占領して窓を開け放つ。風はまだ冷ややかだけれど、陽光は燦々としている。造成の忘れ形見のような里山が近づくと、車窓にあわあわとした若緑が飛び込む。葉裏が白く陽光を立ち込めている。薫風が顔を掠めるので、目を細め、長く吸い込む。

去年までは、この季節の週末は残雪が濃く残る険しい深山に分け入っているのが常で、大都市に程近い住宅街に来ることはなく、バスの車窓から広がるその緑は何とも新鮮だった。宅地のために切り開かれた山野の、忘れ形見のような里山にも、高所深山と同じような新緑の風景があるものなのだなと感心する。車窓の緑と薫風は、もう初夏だ。

車内のアナウンスが告げたバス停の名称が、記憶しておいたものと同じであることに気づき、菓子折りの紙袋とバッグを膝の上に立てる。

バスは谷戸に開かれた住宅街の道路を進み、小さくカーブをした勾配の途中で停まる。鈍いブザーの音とともに中央部の降り口が開き、ぎこちなさが残る足でステップを踏み、アスファルトの歩道に降り立つ。開け放した車窓から感じていたよりも、よほど爽やかな薫風が頬をさらう。陽光は降り注ぎ、木綿のシャツを通しても肌に届く。

光に目を細めながら、四つに折り畳んだ地図をポケットから取り出し、赤い印を確認する。辺りを見回して現在位置を確認し、バスが音を立てて去って行ったあとを追うように緩やかな勾配を上がる。

信号のある小さな三叉路に達すると、また地図を取り出して行き先を確認し、バスが行った方向とは別の道に進む。勾配はやや急になったが、三叉路を過ぎると左側が開け、バスの車窓から眺められた谷戸の里山がいよいよ間近になる。

目が和み、一歩一歩足を踏む。T字路を右に折れていよいよ里山に向かって延びる路地をさらに登る。踏み締めるようにゆっくりと上がりつつ、地図と路肩に連なる表札を見比べる。

次回更新は1月2日(金)、8時の予定です。

 

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線香を取り、火をつけて手を合わせる。葬儀の時も同じ遺影だった。屈託なく顔を崩した、おおよそ山屋とは思えない素直な笑顔。

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