第一章 ほうりでわたる
父の出征
自然災害は戦時中でもお構いなしにやってきます。昭和十九年九月、台風十六号が発生しました。山国川が大氾濫し、堤防が決壊、海から波が押し寄せてきました。
母が食事の支度をしていたところ、家に水が入ってきて、妹が「洗面器が流れる!」と声を出した時には、家の裏側から怒濤のように水が押し寄せてきました。近くの製材所の材木が家にどんどんぶつかってきます。
母は子供たちを抱きかかえて隣の大きな家へ移りましたが、「大事なものを取りに行く」と言って家に戻り、隣の家に引き返してきた時には、胸まで水が押し寄せていました。隣のおじさんが竹竿を母に渡し、それにつかまって危機一髪のところ、やっとの思いで私たちのもとへたどり着きました。
隣の家の二階の窓から濁流を見ていると、新築の我が家はひとたまりもなく押し流されていきました。隣の家と我が家の電線が、ともづなのようにつながっていて、遠くまで流されずに浮いています。濁流にもまれる我が家の押し上げ窓から、タンスの引き出しや布団が流れていくのが見えました。
近くの製薬工場は長いサイレンを鳴らしています。
すると工場から大きな爆発音がしました。濁流の中を一人の男が丸太に乗り、竿をさして製薬工場のほうに進んでいましたが、ほどなく押し寄せる濁流にのみ込まれてしまいました。
その後、水が引いたときに、逆方向に流された我が家は、田んぼの真ん中にぽつんと鎮座していました。丸太に乗っていた人は墓場の横で遺体で見つかったそうです。
着の身着のままで助かった私たち家族は、近所の人の紹介で近くの民家を借りることになり、藁葺き屋根の家に住むことになりました。
家には仄暗いホヤ(電球)があるだけで、六畳と三畳の二間と土間までを一つの電灯の薄明かりが照らしていました。灯火管制になると、この電球の傘の周りにさらに黒い布を巻いて光が外に漏れないようにします。
空襲警報が鳴り響き、近くに爆弾が落ちると、ドドンと地響きがして、食事中のお茶碗が飛び上がったのを覚えています。
そうすると、サーベルを下げ、革の長靴を履いた軍服姿の憲兵のような兵士が見回りに来て、「防空壕に入れ」と叫びます。近所の人たちと共同の防空壕に滑り込み、上空を飛んでいる米軍の飛行機の爆音が去っていくのを息を凝らして見ていました。
防空壕の中は湿気が多く、なば(キノコ)がたくさん生えていました。
グオーングオーンと唸りを上げながら雲間に見えたあれがB29だと近所の人が話していました。