第一章 ほうりでわたる
父の出征
ある日、以前、戸畑の鉄工所で働いていた父の友人から連絡があり、吉富町にある鉄工所で一緒に働かないかとの誘いがありました。まもなく一家は吉富町に転居することになり、父は漁船のエンジンを作るその工場で働くことになりました。
福岡県と大分県の県境に位置し、英彦山(ひこさん)を源流とする山国川(やまぐにがわ)は、豊前海(ぶぜんかい)にそそぎ、地域漁民にとっては生活の基盤を支える母なる川です。父なる豊前海に豊富な養分を与えています。漁師たちは藁で作った腰ミノをつけ、伝馬船(てんません)に乗って力強く櫓(ろ)をこいで沖に出ていました。
港には活気がみなぎり、漁船も徐々に櫓からエンジンに代わり、船も大きくなって漁獲量も増えていきました。朝方船着き場に帰ってくる漁船は、船が沈むのではないかと思うほどの漁獲量で、村は総出の忙しさです。
まだ港は漁港らしく整備されておらず、河口の縁に漁船を係留していた時代です。当時の漁船のエンジンは故障も多く、漁師たちは修理できる鉄工所を求めていたのです。父は朝から晩まで真っ黒になって働いていました。
借家暮らしだった我が家も、父の働きで小さな家を建てることができました。屋根は瓦ではなく杉皮で葺(ふ)いたもので、天井板もない屋根裏は杉皮が見えていました。窓は今のようなガラス窓ではなく、つっかい棒で押し上げる板で作った開閉窓です。
兄弟四人は父母とともに貧しくとも楽しく暮らしていました。そこに、父に召集令状が届きました。いわゆる赤紙です。
「いよいよお父さんも戦地に行くのよ、泣いてはだめよ」と母は気丈にふるまっていました。出征の当日、家の前には竹や笹でアーチが作られ、集まった近所の人たちは、日の丸の旗を振りながら父の門出を祝って送り出してくれました。
そのころ、家のタンスの上には古いラジオがありましたが、毎日軍艦マーチとともに、日本軍の戦果が威勢よく放送されていました。夜の空襲は人々を恐怖に陥れました。