第二章 愛人
山崎亜矢は、風薫る五月の休日だというのに、自宅で物思いに耽っていた。亜矢は退院後の鳥飼が別人だと思えて仕方がないが、今の鳥飼の方が好きだ。というより鳥飼に溺れていると言ってよい。
亜矢は小さい時に父を亡くし、母が小さな洋品店を営みながら一人で育ててくれた。高校の頃、友人の優香は父親のことを汚いとかキモイとか言って嫌っていたが、大学に進学する時には父親に進路のことで相談に乗ってもらっていた。
傍から見ていてもとても羨ましく思ったものだ。亜矢の家は経済的にゆとりがないので、四年制大学への進学を諦め、短大に行くことを決意していた。「どうして私には父親がいないんだろう?」と、自分の境遇を恨んだりしたことが何度もあった。
鳥飼とは二十七歳も歳が離れているのに、好きになったのは、父の面影を鳥飼に重ねていたからかもしれない。
しかし、退院後の鳥飼は劇的に変わってしまった。「全く別の人と恋に落ちた」というのが、的を射た表現かもしれない。亡き父の面影を重ねて好意を寄せていたのに、今は強い男に惚れ直した。というか、悪い男に心も体も奪われてしまった。
亜矢は新人教育の打ち上げの懇親会で鳥飼と出会った。立席形式の懇親会で、支店長の鳥飼を同期の数人で囲んで話をしたのが初めての会話だった。新入社員と支店長ということもあって、とても緊張したのを昨日のように覚えている。
「私は、ここでやっていけるのだろうか?」鳥飼はこんな質問にも誠実に答えてくれた。そんな鳥飼に亜矢は好印象を持った。
懇親会から十日後の休日に、埼玉の叔父に就職祝いのお礼に行った帰り、亜矢は銀座で途中下車をして、ブランドもののカバンを見にデパートに立ち寄った。今はとても手に入らないが、早く一人前になってブランドもののバッグを自分へのご褒美として買い、それを持って銀座をさっそうと歩いている自分を想像した。
亜矢はささやかな目標ができて元気が出た。その帰りに偶然鳥飼に会った。「山崎さん、奇遇だね」鳥飼に声を掛けられてびっくりしたが、名前を覚えていてくれて亜矢はとても嬉しかった。
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