【前回の記事を読む】カフェで不倫相手の妻と対峙――「奥さんのいる男と寝て楽しい?」沈黙が落ちた

第一章

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「それとね。いい? ここが肝心なの」

紗栄子は煙草を灰皿に押しつけた。

「たくさんの妻を持った男には責任があるのよ。公平、公正、平等に妻たちに接すること。守ること。妻以外の女性には手を出さないこと。ねえ。あいつは何の責任を取ってるの? 河合は誰に責任を果たしてるの? あなたとラブホテルに行って、キスしておっぱいやあそこをいじくりまわした手で、平気な顔をして家に帰ってきて、私の隣で寝て、触って、何食わぬ顔で娘と食事をするあの男は何の責任を果たしてるの?」

紗栄子の口調は熱を帯び始めていた。

「ねえ。確かに国や時代によって法律や規則は変わる。悪法だってある。でもね、みんな勘違いしてるの。道徳と倫理は一緒じゃないの。道徳というのは」

紗栄子は言葉を切り、泡のなくなったビールを飲んだ。

「私これでも大学時代に哲学を専攻していたの。尊敬していたのは池田晶子さんという人なんだけど、池田さんはある本の中でこう言っているの」

紗栄子はふと壁を見た。そして目を瞑る。

「外なる規範としての道徳は、常に、『べき』とか『せよ』とか『ねばならぬ』という、規則や戒律の形をとる。だから、それを行う者には強制や命令と感じられる。これに対して、内なる規範としての倫理は、自分の意志で『しない』。『悪いことをしてはいけないからしない』ではなくて、『悪いことはしたくないからしない』が倫理。つまりね……」

紗栄子は声を落とした。

「していいことと悪いことを自分できちんと決められる人が倫理観のある人っていうことよ。あなたにそれがわかる?」