今日子はビクッと身を震わせて現実に立ち返った。目の前に地味なコートを着た中年の女性が立って座席を指差している。

バッグ。どうやら無意識にバッグを座席に置いていたようだ。今日子はバッグを慌てて膝に置いた。またしても涙を浮かべていることに気づいて驚くとともに、情けなくもあった。

「すみません」と答えて「どうぞ」とうながした。女性はほぼノーメイクだったが、はっきりとした目鼻立ちのためか、野暮ったさは感じられなかった。痩せて優雅な体つき。細身のパンツには丁寧な折り目がついていた。

「失礼」

女が隣の座席に腰掛けた。体つきだけでなく、動きまで優雅であった。今日子は不思議な感覚に襲われた。この人とどこかで会ったことがある。

あっ!

「体調はいかが?」と女が言った。思い出した。昨夜私を介抱してくれた人──。

「あまり調子が良さそうには見えないけど」
「すみません」

今日子は咄嗟に謝っていた。

「昨日は気持ちが悪くて、それであまり覚えてなくて、ちゃんとお礼も言えず、すみません。本当にありがとうございます」

女は口元に笑みを浮かべたまま今日子を見た。

「病院には行ったの?」
「はい。今日行きました」
「妊娠?」
「えっ?」

今日子は言葉に詰まった。何を言っているんだ、この人は?

「あなた雨水今日子さんでしょ?」

女の目が鋭くなった。

「私、河合紗栄子と言います。河合幸一の妻です」

次回更新は10月25日(土)、21時の予定です。

 

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