【前回の記事を読む】咲は、引き取られた時から、離れた所からじっと観察しているだけの子供であり、自分から話しかけることは絶対しなかった

ある日、巴達がインフルエンザで桜田部屋に来られないことがあった。食事の用意も巴達に任せていたので、道長は出前でも取ろうと考えた。食べたいものを聞くべく咲を探すが、二階の部屋には居なかった。

咲が一人で外に出ることは無いので、一階に降りて探したら、炊事場に酒屋の前掛けを着けた状態の咲を見つけた。

そこには、御飯と味噌汁が三膳分用意されていた。

御飯を炊くのは特注の巨大な羽釜を使用するのだが、その羽釜が湯気の上がった状態で床に降ろされていた。

炊く時は、竈(かまど)に羽釜を載せて、上から米と水を入れるのだが、炊き上がるとかなりの重さになるので、巴達が二人掛りで床に降ろしていたのだ。

道長は、咲に「なんで、羽釜が降りてるの」と聞いた。

咲は手袋をはめて、羽釜の羽の部分を、手と腹の前掛けの部分に当てて、その状態で持ち上げて、竈の上に降ろした。目の前に起こった状況に硬直状態の道長であったが、脳内は硬直していなかった。

「咲は、とんでもない怪力だ。この怪力を利用して女力士になれないだろうか。巴さん達が女力士だった頃は、二人とも強く人気もあったので、部屋の羽振りも大層良かったと聞いている。女力士として稽古する為の条件(稽古場、指導員)は揃っているので、設備投資に費用は掛からないはずだ」

桜田部屋の収支状況は悪くなるばかりなのに、唯一の収入源の本場所での弁当事業も、他の業者が参入すると聞いている。新たなビジネスの開拓は、多額の借金を抱える桜田部屋としては必須であった。

道長は、咲を女力士にすることを、女将に提案した。

女将は、咲が怪力であることは認めたが、それだけで女力士として成功するとは思っていなかった。

ましてや、人気力士なんて、地味で無口な咲には絶対無理だと(自称、人気力士の)女将は思った。

だが、無理なのを判らせるには、やらせるのが良いと考えた女将は、巴や坂額を相手に相撲が取れるなら、咲が女力士になることを認めると言った。

長い事、使われなかった土俵の上に、廻しを着けた巴と坂額が立った。共に六十歳は越えていたが、その姿には、最強女力士と呼ばれていた頃の風格を漂わせていた。

咲は、廻しは着けない状態で、土俵に上がり、最初に巴好子と取組むことになった。

立ち会いで四つの状態になったが、体格が二回り以上違うので力の差は歴然であった。そのまま咲は土俵際まで押される。咲の足の裏が滑って、土俵内に二本の線が引かれる。所謂(いわゆる)、電車道である。

そのまま、土俵の外へ押し出されると思ったが、咲の踵が土俵に掛かり、踏ん張りが効くようになって、自分よりもかなり重い巴を持ち上げて、向こう側の土俵の外まで運んで、ゆっくりと降ろした。

相手が坂額美子に代わっても、同じ状況を再現するだけであった。