そして気を回してくれている方々へ心配をかけたくないがために、無理して口にする言葉、「だいじょうぶ」をいくつもの場面で言った。だいじょうぶじゃない人ほど心配かけたくなくてだいじょうぶと唱える。
私も入院先へほぼ毎日、一日の中で往復3回する日もあった。そんな時に看護師さんから「だいじょうぶ? そんなに通わなくても死なないから」と。
信用してないわけじゃない、ただ、体が行かなきゃと言っていた。そのまま眠くても行かなきゃ行かなきゃの繰り返しで、夫の病室に通う中、「乳飲み子いるのに、三人も連れてだいじょうぶ? 奥さんだいじょうぶ?」と。
もうとっくにバーンアウトしていたと思う。なりふり構わずだいじょうぶと言葉で私を奮い立たせていたことすらも気づいていない。退院しても、だいじょうぶ?と聞かれてだいじょうぶですと繰り返した結果、顔は嘘つけない。
疲れが出てる。だいじょうぶと唱えないほうが良かったと、辛いときはだいじょうぶじゃない私に気づいて無理をしないことも必要だった。
無理したいほどあのときは時間がなかった。一日は長いのにあまりにも時間がなかった。それは心の時間がなかったからだと今なら言える。自己管理能力のスキルアップを考えなければならないステージに立たされた気がした。
私ひとりでは生きていけない。私が倒れたら残された子どもはどうなるのか。考えたら子どもにもよく労われていた。気を使わせる母親なんて母親失格だ。そんなしくじり先生でもある私から言いたいことは、人生には時間はあるから。
残された時間は知り得てはいないけれど、生きている時間には終わりがあろうと、明日に回せるものなら回して明日を大事に活用するのも、吉。心にゆとりをもって体を動かす。心についていけない体を動かしていて、周りから心身を労らないあなたはだいじょうぶ?と言われたら、その助言を大切に。

試し読み連載は今回で最終回です。
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