千春の瞳は私を捉えて離さなかった。頬を優しく包まれて、熱さと冷たさが私の体を取り合う。

「千春⋯⋯何でそんな顔してるの?」

「知らない」

部屋の色めいた空気は静かに私たちを包み込んだ。

私たちの唇は、ゆっくり重なった。

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それは本人にとっての希望であり、私への抵抗なのだろう。そんな彼に私は恐る恐る駆け寄った。

「どうだった?」

「大丈夫」と、目も合わせずに雑に靴を脱ぐ。大丈夫なんて、ウソ。下手くそ。

千春は嘘をつく時、瞬きが多くなる。今も例外ではない。何もしていないのに長く丈夫な睫毛がくっついては離れ、くっついては離れを繰り返している。彼が横を通ると微かに病院の独特な匂いがした。

私は穏やかでない心を落ち着かせるように、ぞんざいに放られた靴を丁寧に揃えた。

千春が倒れてから一ヶ月と少しが経った。定期的に通院はしているものの体調は私たちを嘲るかのように悪化の一途を辿った。腰やお腹を抑えることが目に見えて増えた。体はますます細くなった。でも入院はしないと、私への脅迫にも似たような固い意志がある彼には何も言えなかった。

息を一つ吐いて立ちあがろうとした瞬間、とても嫌な予感がした。いつも通りに体が支配されていく。下腹部を押さえながら私はトイレに駆け込んだ。
 

次回更新は8月23日(土)、20時の予定です。

 

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