「お前が開いている菓子教室あるだろ。あの講師を俺に代われよ」
「……つけてたのね」
行彦は引っ越してからの結愛のマンションを知らないはずだ。
「お前は俺の人生に責任を取るんだよ!」
行彦が上着のポケットに手を入れたその直後、何かが日の光に鈍く輝いた。刃物、そう思って座り込んで頭を抱えた結愛の前に、差し出されたのは銀色の万年筆と婚姻届だった。
「なあ、講師を代わるのが無理なら、俺と結婚してくれよ。頼むから。生活の面倒見てくれよ、お前のことまだ好きなんだよ、なあ」
そう言って行彦は結愛の手首を無理矢理掴んで、署名させようとする。
「離して、やめて、嫌だ!」
掴まれた手を振りほどこうと暴れる結愛に、気持ち悪く行彦は笑いかけてくる。黄ばんだ歯が不気味に光った。
「何やっているんだ、貴様!」
今度はバシッという音がして、万年筆は上着から取り出された時と同じように青く輝きながら、用水路に飛び込んでいった。一瞬、何が起きたか分からないまま結愛が顔を上げると、そこには竹刀を手にしたワオが結愛の前に立っていた。結愛がワオの足の間から見ると、行彦が座り込んで無様にひい、と声を上げながら後ずさりしている。
「俺は結愛の婚約者だ。二度と結愛に近づくんじゃねえぞ!」
ワオはこれまで結愛が聞いたことのない大声でそう言うと、見事な面を行彦の眉間に決めた。わひゃああ、と情けない声を響かせて、行彦は四つん這いのまま退散していった。
「大丈夫ですか」
瞳を潤ませて、ワオは結愛を見つめ、抱き起こした。
「怖かった、怖かった、怖かった」
十分しゃべれない結愛に肩を貸して、とにかく家に入りましょう、とワオは結愛をマンションまで連れて行った。