第一章 ほうりでわたる
ほうりでわたる
一九四一(昭和十六)年十二月、日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が勃発して二年ほど経っていました。地域に国防婦人会などが結成され、モンペをはいた婦人たちが整列して「きをつけー、前にならえー」と威勢のいい号令をかけていました。
号令をかけていたのは、向かいの家のひろちゃんちのおばあちゃんでした。ひろちゃんちは豪邸で、大きな庭には四季折々を彩る木々が植えてありました。
中央には築山があり、周りに池がありました。池で遊んでいる時、ヒルが私の足に吸いつき、泣きながら家に帰ったこともありました。
我が家はY字路の角(人が両手を広げY字を作ると頭にあたる部分)に建っていて、左右に分かれた道の角には、四角い防火水槽があり、手押しのポンプもついていました。
その防火水槽から水を汲み上げ、バケツリレーなどをしながら、モンペをはいたおばちゃんたちが防空演習をしていました。このころ、空襲が本土に近づいていたのです。
父は自宅近くの鉄工所で働いていました。私は母に連れられてよく工場に遊びに行きました。
その工場では灌漑用水を汲み上げるためのバーチカルポンプを作っていたようです。佐賀には池や沼などが多くあり、たらいを浮かべて菱の実採りをする風景や、蓮畑が方々に広がっていました。
佐賀県は蓮根の名産地でもありました。そのために揚水用ポンプの需要が多かったのだと思います。
器用な父は、仕事の合間に三輪車を作ってくれました。少しごついのですが、父手作りの三輪車です。