妻とは2年前に別れていた。所詮、写真だけを生業としながら家庭をもつことなど無謀としか言いようがなかった。
しかし、妻はそれでもいいと言い、看護婦の仕事を続けながら経済面で私を支えてくれていたのだが、そういった彼女の想いが次第に重荷となり、私の方からやり直しが利くうちに別れた方がよいと切り出したのだった。
非情ともいえる突然の別離の宣告に彼女は驚き、嘆き悲しんだが、将来に全く展望を持つことが出来なかった私にはそうするしかなかった。自らの定まる見通しもない我儘(わがまま)な生き方で、彼女を不幸にはしたくなかったのだ。やがて彼女は去り、私はそれまでと同じように売れない写真を撮り続けた。
学生時代、友人と二人で2か月ほど東南アジアを旅行したことで、多少の英会話には自信はあったが、アメリカで生活しながら、しかも私がもっとも得意とする風景写真が撮れるという話はまさに夢のようであり、二つ返事で快諾したことはいうまでもない。
「これから間違いなく、あまり知られていないアメリカ東部への旅行ブームが起きる。それを君に先取りしてきてもらいたいのだ。行き先はニューヨークだ。私の知り合いのフレミングという神父の実家が君の活動の本拠地となる」
この時、私の脳裏に浮かんだニューヨークのイメージといえば、誰しもが思い浮かべるあの聳(そび)え立つマンハッタンの摩天楼や、自由の女神以外の何物でもなかった。
「ニューヨークといってもかなり辺鄙(へんぴ)なところらしい。彼は近くの町に住む一人暮らしの母親の世話をすることと、彼が帰国する来年の夏までの間であれば、という条件つきでようやく家を貸すことを認めてくれたのだが、このプロジェクトの適任者は独り身の君しかいないと初めから決めていたんだよ」
編集長はそう言ったが、要は私のような貧乏写真家を、最低のコストで使いたいというのが彼の本音であろうことも分かっていた。
その後編集長は、1年間のアメリカでの取材活動に対する報酬などの条件を示し、私は彼の思惑通り、すべてを受諾した。期間は1994年7月1日からの1年間と決まり、パスポートやビザの申請、国際免許証の取得などをあわただしく済ませたのであった。
出発する3日前にはこのフレミング神父とも会い、彼の母親のことや、周辺の様子などについてのレクチャーを流暢な日本語で受けた。神職ということもあってか、誠実を絵に描いたような初老の紳士であった。
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