サブちゃんとは、三日前に商店街に迷い込んだ男のことだ。

見知らぬ男がアーケードのベンチに座ったまま何時間も動かないと連絡を受けたのは、商店街の相談役のひとりである市瀬だった。仕事の合間を縫って現場に駆けつけると、みすぼらしい恰好をした男がベンチに腰掛けていた。

男は丸顔で自然と口角が上がっており、どこか笑みを堪えているようにも見えた。しかし、名前や住所を聞いても「わかりません」と繰り返すばかりで埒(らち)が明かない。

市瀬の頭には、男が記憶喪失なのではないかという疑念が浮かんだ。手掛かりになるかわからないが、男は右手首に濃い緑色の数珠をしていた。

その晩は自宅に男を泊め、夜が明けてから町医者の紹介状を持って大学病院へ向かった。検査の結果、男は記憶喪失の可能性が高いと言われた。

市瀬は同じく相談役を務める山本と鈴木に連絡を入れ、ことの顛末を報告した。警察に引き取ってもらう案も出たが、そのうち記憶が戻ってくるかもしれないから商店街で世話をしようということで話がまとまった。

どれだけ寂れようと、人情味だけは厚いのがこの商店街の取り柄だった。当面は商店街の会員が一ヶ月交代で自宅に預かることになり、一番手として時計屋の小島が手を挙げてくれた。男は三郎商店街にちなみ、サブちゃんと呼ぶことに決めたのだった。

「それがな、小島さんは意外にも喜んでいるようなんだ。何でも、ふたりで将棋を指したり散歩をしたりして、日がな一日一緒に過ごしていると言っていたぞ」

鈴木が言った。

「名前や年齢は忘れているけど、将棋の指し方は覚えているんだな」

山本が不思議そうにつぶやくと、

「人間の脳ってのは奇妙なもんだなあ」と、鈴木がうなずいた。

時計屋には、主人の小島と妻の節子、離婚後に引き返してきた娘のあずみ、その子供のゆうりの四人が住んでいた。小島は老いが急速に進んで体が弱り始めており、代わりに店を切り盛りするのは節子で、あずみは外へ働きに出ていた。

小島は少々認知症の気もあったため、サブちゃんのような話し相手がいると、家族は大いに助かるようだった。

「そう聞いて安心したよ。しばらくはこのままで良さそうだな」

市瀬は胸を撫でおろした。