第一章 鯛のしゃくり釣り

五月八日―小潮

「はい、ごめんなさい。もうしません」

みいに鼻を噛(か)じられて起きた太平の、その日は久々に忙しい一日となった。

 

まずは徳造、やじろと共に、舟屋に吊るしてあった屋根船を降ろして水路に浮かべた。

「はい、水は出てません。ええ、問題ありません」

屋根船の、座敷の畳と床板をすべて外して点検をした。

「当たり前や。お役のない時でも、時々は水に浮かべて手入れしとる」

やじろの嗄(しゃが)れ声が響く。

やじろは元は漁師だったが、徳造に見込まれて養子となった。徳造が隠居してからはやじろが船を漕いでいる。仕事は船頭だが、身分は歴とした武士だ。

天賀家抱え従士四十石取り、小坂弥次郎兵衛という立派な名も持っている。もっとも、本人に武士の自覚はない。

「漁師はやめんよ。それでええんなら養子になっちゃる」

その言葉通りに、暇があれば実家に戻っては網船の櫓を握っている。釣雲や太平が江戸詰めの時には、一年のほとんどを漁師で過ごす。武士が三分で漁師が七分、そんな見当だ。

幸いに天賀家の抱えだから、お城に上がる事も、他の武士との付き合いもない。裃(かみしも)も両刀も、釣雲への挨拶の時に一度着けたきりだ。

太平とは、太平が釣雲の弟子になった時からだから気心も知れている。

 

「あー、やっぱり海はいいですねえ。ええ、広くて青くて、空も青くて広くて雲は白くて。ええ、日々是れ好日、天下太平。世はなべて事も無しです」

艫(とも)でやじろが櫓を漕ぎ、船首では徳造が投網の準備を始め、舳(へ)先に立った太平は気持ちよさそうに潮風を受けている。

 

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