『業(カルマ)』の因果律

この宇宙の大生命が、それぞれ異なる個性を帯びた肉体・精神として人間に現れる仕方は、「『業(カルマ)』の因果律」に依る。すなわち両親や先祖からの遺伝や日々の生活でため込んだ「潜在意識」などが「因」となり「縁」となり、今の自分という「果」をもたらしたのである(『総合仏教聖典講話』)。

そして人間は「生きている間中も、これといって固定した自我というものを見出せません。常に因縁によって向上もし、堕落もする可能性のある活々した一つの勢力存在」としてあり、それゆえにこそ「精神肉体の輪廻すなわち生まれ代わり、死に代わる生命の連鎖」を脱し(上掲書)、「仏性(人格完成)の種子」の「芽を吹かし」「早く人格完成を遂げて覚者になること」が仏教の目的にもかなうことになる(『仏教読本』)。

「精神上にエゴという滞(とどこお)りがあると、宇宙から自分に通っている生々した生命の流れを防ぎ止めて」しまうからこれを除くべきであって、仏教では「この精神的作業に力を入れ、『空』の哲学という一つの哲学体系が出来て居」るのだと言う。

そして「空」とは「この宇宙の組織機構は自分も引っくるめて精神と物質の仮の結合で(中略)どれ一つとして絶対の永続性を持っているものはない」との意味だが(『仏教のルネッサンス』)、ただ「空」は空無や虚無でないことはもちろん、「丁度人体の呼吸に充てられた空気と同じように即処々々自分の生命を充実さして行く精神界の空気のようなもの」(『仏教論拾遺』)でもあるのだ、として「宇宙生命」と関連付ける。