第3章 仏教的死生観(2)― 法華経的死生観
第2節 「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」の菩薩行―宮沢賢治の場合
仏教の不殺生の理念に沿うべく菜食主義者だった賢治だが、彼の利他行への徹底は、例えば『グスコーブドリの伝記』などの童話や、科学の利用による農民のための土壌改良事業への関与にも表れている。『グスコーブドリの伝記』では、冷害から人々を救うために科学の力で火山を爆発させ、そのために自己犠牲の死を選ぶのだ。
また、「宗教は疲れて近代科学に置換され然(しか)も科学は冷(つめた)く暗い」とは記すが、「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て」農民芸術を論じよう、と近代科学への期待は捨てていない(前掲「農民芸術概論綱要」序論 ㉓)。先に賢治が科学と宗教の総合による菩薩行に向かったと記したゆえんだ。
振り返って、賢治の死生観を一言でまとめると、「不惜身命」ということに尽きる。「病(いたつき)のゆゑにも朽ちん/いのちなり/みのり(御法)に棄てば/うれしからまし」という死の床における遺詠(前掲㉓ 第一巻)の通り、人々の救いという法華経の御法(真理)のためには棄てて惜しまないわが命なのだ。すなわち、賢治の場合は、自分もその中で生きている風土(イーハトーブ)の人々との連帯のための具体的な実践を伴う「菩薩行」としての不惜身命だと思う。
「雨ニモマケズ」にある「ミンナニデクノボートヨバレ」の詩句の謙虚な「デクノボー」の生き方がそれだ。ちなみに「デクノボー」は法華経の「常不軽(じょうふきょう)菩薩」をモデルにしたと言われるが(同じ手帳に詩「雨ニモ負ケズ」、戯曲の構想「土偶坊(デクノボウ)」、詩稿「不軽菩薩」が載る)、賢治は最後に、『国訳妙法蓮華経』の刊行と知人たちへのその配布を父に依頼する遺言を残してこの世を去った(㉓ 第十六巻〈下〉年譜篇)。
おそらく、賢治には死後、弥勒菩薩たちが修行・説法している「兜率(とそつ)天」(註:詩「永訣の朝」で死んだ妹とし子の昇天先とされたあの世。〈前掲㉓ 第二巻〉)に自分も行くのだと想像されていたであろう。