たとえばコンロのスイッチを付けたことを忘れたり、外出してもどこへ行くつもりだったのか、場所がわからなくなったりするのです。洋一さんが恵子さんを介護付きの老人施設に入所させたのが2年ほど前で、その時点から私たちが診療を担当することになりました。

薬物治療と会話を重ねるうちに、恵子さんは次第に落ち着きを取り戻されました。それにともない、洋一さんの施設訪問の時間を待ち望むようになったのです。洋一さんと一緒の彼女は本当に嬉しそう。いなくなると途端に悲しそうです。「会いたい」と涙されることもあったのです。洋一さんは決意しました。自分が家事全般をすることで彼女を施設から自宅に戻したのです。

しかし、洋一さんは、それまで炊事、掃除、洗濯をフルにやったことはありません。そこで、昼間に訪問介護(食事や身の回りの介助など)のヘルパー派遣やデイサービス(介護施設に日帰りで通って、食事、入浴、レクリエーション、機能訓練などを受けること)を依頼したのです。これらの費用は全て介護保険でカバーできました。

介護施設診療から引き続いて自宅に戻った患者さんを診療することは、実はこのケースが初めてでした。その逆のケースの経験はあります。この場合、自宅でなら、なにもかも自分が主体で動くことで不都合な事態を引き起こすこともあったわけですが、自宅生活にある種の張り合いがあったことは確かです。

施設に入って介護や治療を受けることで、様々な心身の問題がおさまる一方で、家族の一員としてそれまで何らかの役割を担っていた状態から、突然、患者さんの実生活の緊張感が失われ、生きがいを喪失することも感じていました。予想通り、自宅に戻った恵子さんは、大好きな洋一さんとの時間が増え、見違えるほど活き活きしていたのです。