小さい頃から親鸞の「正信偈げ」や蓮如の「御文章」を聞き覚え、父たちが運営する花巻仏教会夏期講習で暁烏敏(あけがらすはや)(一八七七~一九五四)や島地大等(だいとう)(一八七五~一九二七)の講話を聴き、16歳の時には「小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と父宛ての書簡で宣言したほど(前掲㉓ 第十五巻)、賢治は熱心な真宗門徒だった。
浄土三部経の一つ『無量寿経』の四十八願の中の第十八願、「もし私が仏になるとき、すべての人々もまた念仏によって浄土に生まれることがないのなら、自分は悟りを開かない」と法蔵菩薩が願ったという文章を賢治は知っていたからこそ、後年の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(「農民芸術概論綱要」序論 ㉓ 第十三巻〈上〉所収)の発言につながると山折哲雄は記す(森岡正博との共著『救いとは何か』筑摩書房 二〇一二年)。
その賢治が18歳(大正3・一九一四年)の時に読んで異常な感動を受けたのが、島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』(同年刊)で、彼の生涯の聖なる書物となる(島地大等は真宗の僧侶だが、源流としての天台本覚思想理解のために法華経を紹介したようだ)。
賢治は法華経信仰だけではなく、「念仏行は無間地獄への道」と批判した日蓮の教えに次第に傾いていく。24歳の時には友人に「“世界唯一ノ大導師”日蓮大聖人」(“ ”は賢治による傍点)の「御命ニ従ッテ起居、決シテ御違背申シアゲナイコト」を誓う手紙を出して(㉓ 第十五巻)国柱会に入会し、父にも改宗を促している。
賢治はなぜ浄土真宗から日蓮宗に改宗したのか。梅原猛のように、『歎異鈔』の悪人正機の思想では 「還相廻向(げんそうえこう)」の理念を説いておらず、この「修羅の世界」にある生きものたちを救う「利他行」が足りないと賢治が感じたからだ、とする主張(五木寛之『仏の発見』での五木との対談 平凡社 二〇一一年)がおそらく正しいと思う。
賢治は質屋・古着屋という家業を嫌っていた。困窮した人から利益を得ていながら、父は阿弥陀仏の慈悲にすがろうとしている。
そういう父に、22歳の一九一八年には「今のこのとき念仏をとなえて一人で生死を離れるということでいいものか」という内容の手紙を出し、さらに友人・保阪にも同時期、法華経信仰の「功徳をあまねく一切に及ぼして十界百界もろともに仝(おな)じく仏道成就せん。一人成仏すれば三千大千世界山川草木虫魚禽獣みなともに成仏だ」との手紙を書き送った(前掲㉓ 第十五巻)。