第一章 新たな訪問者
亜美
─ここだよ─
錯乱する意識の中で聴覚を失いかけていた亜美にこの声を聞き取る力はなかった。
諦めずに呼び続ける狢。
─ここだよここ、こっちだ─
ふと亜美は、すぐそばに誰かの気配を感じた。
─やっと気づいたね─
にわかに呼び覚まされた意識。
「誰?」
─ここから出るんだ、僕についてきて─
「え?」
─走るんだ、さあ早く!─
身体を置いてきた狢は姿の見えない状態で亜美を誘導するしかない。
気づかせることができたんだ、きっとついてくる。
狢の意識は全力疾走した。走り出した亜美に看護師が気づいた。
「どうしたの?」
看護師の声。
「どこに行くの?」
「逃げられないわよ」
看護師たちが追いかけてくる。
「待ちなさい亜美」
名前を呼ばれ、恐ろしくなって亜美は走る。暗い廊下を通り抜け、館の外へ向かって全力で走る。ドアを押して外へ飛び出すと運動靴の底がザシッと土を踏んだ。
§
「誰かいる?」
身体を置いてきてもちゃんと息は切れていた。
─ここにいるよ、安心して─
荒い息で答える狢。
─姿は見えないけれど君のそばにいるから─
不安げに辺りを見回す亜美。
「あなたは誰?」
─僕は狢、君を連れ出したくてとにかく急いで来たんだ─
「助けてくれたの?」
─声を掛けただけさ。君、走るの速かったし。僕なんかシッポに引っかかって転がっちゃったよ─
「シッポ?」
狢のジョークに小さく笑った。どんな苦境に置かれても亜美は九歳の無邪気な少女だ。 ─もう大丈夫、ひとまず安心だ─
振り向けばドアは固く閉まり、星空の下で古い館は何事もなかったかのように静まり返っている、看護師も追ってこない。亜美は見えない狢に話しかけた。
「あなたってたぬき?」
─えーっ、よくわかったね─
「ホントに? たぬきなの?」
─いや、どーしてか今たぬきなんだよ。でも狢って言ってほしいな─
「ムジナ」
このまま亜美を連れていける所まで一緒に行こう、一人になればまたカプリスの言う邪悪な何かに取り憑(つ)かれてカトマンザへの道程(ルート)を見失うかもしれない、そうはさせたくない。
栗林でおたまじゃくしの池を見つけたら、青い廊下を通ってカトマンザへ。もし身体があったなら、その密集したアイボリーの毛はムックと立って揺るぎない決意を表していただろう。
だが身体を置いてきたお散歩状態(トリップステイト)では亜美を守り切れるかどうかもわからない、でも進むしかない。狢の思いは真っすぐにカプリスの闇へと続いていた。