私は慌てて本棚に隠れた。あの人が本棚の向こう側を通り過ぎたのを見て、ほっとしたのもつかの間、その姿は私のいる通路に現れた。私は逃げようとしたが、それより先にあの人が私のことに気づいた。

「川北さん」

見つかった恥ずかしさと名前を言われた喜びとが入り混じって変な気持ちになった。私はあの人をこっそり見ていたことを悟られないように、今はじめて気がついたふりをした。

「あっ、先生。こんなところで何しているんですか?」

「ちょっと世界史の資料を見てたんだ」

あの人は眼鏡を持ち上げ、辺りの静寂を乱さない小さな声で言った。

「先生でもわざわざ調べものするんですね」

「もちろんだよ。知らないこといっぱいあるからね」

「先生に知らないことがいっぱいあるなら、私には知らないことしかないですね」

私は冗談のつもりで言ったが、あの人は笑わなかった。

「そんなことないよ。僕が高校生のときなんかより、川北さんのほうがよっぽどいろんなことを知ってるよ」

「それは先生のおかげです。いろいろと教えてくれるから」

「僕は聞かれたことに答えてるだけだよ。川北さんみたいに積極的に質問する人なんて他にいないよ」

それはあなたが好きだからだと、私は言いたかった。他の生徒と私に違いがあるなら、あなたが輝いて見えるかどうかの違いだった。

「何の本を借りたの?」

あの人が私の持っている本に目を向けた。私はあの人が興味を持ってくれたことが、それがたとえ本に向けられた興味であっても嬉しかった。

「ツルゲーネフの『初恋』です。知ってますか?」

「もちろん知ってるよ。良い本だね」

「いつ読まれたんですか?」

「大学生のときかな」

「高校生の私なんかに理解できますか?」

「大丈夫だよ。川北さんなら」

いつから私のことをそんなに信頼してくれているのだろうと思った。もしかしたら私の思いはあの人に届いているのだろうか。私はあの人の目をじっと見た。そこに答えが隠されているような気がして。

【前回の記事を読む】私と先生の間にはガラスのように見えない、高い壁があった。どんなにあの人のことが好きだからといって、付き合うことはできない。近づくには限界があった。

次回更新は1月4日(土)、22時の予定です。

 

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