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「もしかして川北さんは洗礼でも受けてるの?」
「いいえ、受けてません」
「じゃあ、親戚とかに信者の人がいる?」
「私の周りにそういう人はいません」
「じゃあ、なんでキリスト教は寛容だって思うの?」
「なんでって……、そう言われると答えづらいですけど、映画とかを観て、そういうイメージができたっていうか」
「例えばどんな映画?」
「先生が言ってた『ベン・ハー』とか『クオ・ヴァディス』とかです」
「ああ、なるほどね」
あの人は頷いた。すべてを見透かしたような言い方だった。
「確かにあの映画を観ると、キリスト教徒は可哀想な被害者で、それでも自分たちの神を信じる清らかな心の持ち主のように見えるよね。実際、映画も小説もそういう意図で作られているからね。
ただ忘れちゃいけないのは、それはあくまでキリスト教の内側から見た事実だということだ。そして、真実は常に一方の視線が正しいわけじゃないことも忘れちゃいけない」
あの人の声は小さかったが、それをかき消すほどの力強さがあった。私にはあの人の言っていることの半分も理解できなかったが、あの人が私の知らない真実を知っていることだけはわかった。
「じゃあ、キリスト教が迫害されたのは自業自得なんですか?」
「自業自得とは言わないよ。迫害はやりすぎだと思う。特にネロなんかは必要以上にキリスト教への憎悪を煽って多くの犠牲者を生んだことは許されることではないよ。
ただその後の歴史を見てみると、今度はキリスト教徒が逆に迫害する立場になったことを忘れてはいけないよ。植民地支配だって、奴隷貿易だって、元をただせば自分たちこそが正しいというキリスト教徒の傲慢さの現れだよ。はたしてローマの皇帝たちが彼らの危険性についてどこまで自覚的だったかはわからないけどね」