「どこがわからないの?」
自分がここに来た表向きの理由を忘れそうになっていた私にあの人が聞いた。私は慌てて考えてきた理由を記憶から引っ張り出した。
「えっと、キリスト教についてなんですけど、どうしてキリスト教はローマ時代に迫害を受けたんですか? ローマ文明は他の宗教について寛容だって教わったんですけど」
あの人は私の言葉を一言も聞き漏らすまいとするように真剣な目をして聞いていた。その目力に言葉も心も吸い取られてしまいそうな錯覚に陥った。
「教科書的な答えは皇帝への崇拝を拒否したからだよ」
「どうしてキリスト教は皇帝への崇拝を拒否したんですか?」
「それはもちろんキリスト教が一神教だからだよ。彼らは自分たちが信じる神しか信じない。それは当時の多神教であったローマからしたら異端的な考えだったんだ」
「じゃあ、戦国時代の日本でキリスト教が迫害されたのも同じ理由ですか?」
「日本も多神教だったから似てるところはある。ただ別に秀吉は自分への崇拝をキリスト教徒に強要したわけではない。彼がキリスト教徒を迫害したのは、キリスト教徒が日本人を奴隷として海外に売り飛ばしていたからだよ」
「そんなことをしていたんですか? ちょっと信じれません」
「どうして? キリスト教徒はアフリカでも奴隷貿易を盛んにしていた人たちだよ。黒人と同じように日本人も下に見ていたと考えるのはそんなに不自然なことじゃないと思うけど」
「どうしてキリスト教徒はそんな酷いことをしたんですか?」
「それは簡単だよ。キリスト教が排他的で不寛容な宗教だからだよ」
あの人は瞬きせずにそう言った。まるであまりにも自明な理を説くかのように。しかし、私にはまったく意味が理解できなかった。
「排他的で不寛容ってどういうことですか? 私には逆にキリスト教は寛容な宗教に見えますけど」
「キリスト教が寛容? 本当にそう思うの?」
そう言ったあの人は笑った。私はあの人の笑顔をはじめて見た。生徒がくだらない冗談を言って教室が笑いに包まれたときですらつまらなそうに机の上を見ているあの人がはじめて見せた笑顔だった。
【前回の記事を読む】先生の存在を全身で感じたかった。顔をもっと近くで見て、匂いをもっと近くで嗅いで、言葉を鼓膜が痛くなるぐらい近くで聞きたかった。
次回更新は12月30日(月)、22時の予定です。
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