この時期、剱岳の山域で好天が数日続くことはめずらしい。天気予報でも、明後日には悪天が訪れ、その後小康を得るもすぐに強い冬型になるため、日本海から直接そそり立つ標高三,〇〇〇メートル近くの高峰域は厳しいコンディションが予想されていた。

最短で六日間の計画だが、順調に行くとは限らない。予備日を含めると、これから何日間も眼前の山嶺と格闘しなければならず、そのうちには必ず悪天の周期があるはず。

林道の雪は次第に増していき、いよいよ足が取られるようになった。川田の前を行く鬼島は膝が埋まるくらいの雪をラッセル(深い雪をかき分けながら登る動作)しながら歩いているにもかかわらず、先頭を交替してくれと申し出る素振りもなかった。結局、鬼島は一度も先頭を交代することなく馬場島まで到達してしまった。

馬場島の指導センターには富山県警の山岳救助隊員たちが詰めていた。二人は指導センターの前にザックを置き、階段を上がった。鬼島がドアを開け、川田もあとから続くと、警備隊員が「こんにちは」と迎えてくれた。

「入山ですか」と、若い警備隊員が聞いた。鬼島はやかんの載った石油ストーブの脇をすり抜けながら「はい」と返事をし、警備隊員より前に事務机の脇に立った。

警備隊員は鬼島をよけながら事務机につくと、机上に置いてあった帳簿をパラパラとめくりながら「どちらに入られます?」と聞いた。「小窓尾根です。下山は早月尾根で」と、鬼島はめくられる帳簿を覗き込みながら答え、「まあ、たいしたところじゃあないです」と続けた。

冬の剱岳に入るのは初めての川田は、ストーブに手をかざしながらピクリと耳をそばだてた。