私(西野鉄郎)は高校生に英語を教えています。N(西野作蔵)君は私の塾のOBです。上智大学の2年生で、ロシア語を専攻しています。帰省中の冬休みのある日、私たちは茶房古九谷(九谷焼美術館内)で会いました。話は弾み、3日連続で、「織田信長と古九谷」について話し合いました。
1日目 新信長論 利家と信長
『国盗り物語』(司馬遼太郎)、『織田信長』(山岡荘八)によって植え付けられたイメー ジはなかなか払拭できませんが、本章(1日目)はこうした織田信長像からかなりかけ離れています。小説ではなく、一種の論考のような内容を持っている本作品の導入部としては、読者の興味を引きつける内容です。
遺骨は高岡と金沢にある
私:次は織田信長の「遺骨」の話をしようかあ。本能寺の変当日、利長・永姫夫妻は信長(父)に会うために本能寺に向かっていた。ところが瀬田の唐橋(京の入口)で信長の死を知る。利長はただちに同行の家臣を本能寺に走らせた。
N:だから焼け跡で信長の骨を収集できたというのですね?
私:そう。ところで、作蔵君、小泉首相が激賞した『信長の棺』(加藤廣)は読んだかい? 信長の遺体がない。その謎を『信長公記』の太田牛一が解く物語で、牛一が本能寺の変後、利長に保護されて加賀松任にいた場面から始まるんだがね。
N:松任で「信長公記」が!
私:そして遺体は京都の阿弥陀寺にあると牛一は突き止める。しかし遺骨なら、金沢にもあるし、高岡にもあるんだ。利長・永姫夫妻が京から金沢に持ち帰って、信長の霊を慰めたからだ。日本で最初に信長を祀ったのが前田家で、金沢には泉野菅原神社、高岡には織田信長御分骨廟(国宝瑞龍寺)があるんだ。そして京都には建勲神社もある。明治天皇が建立されたんだ。信長を祀る神社は織田氏子孫以外では明治天皇と前田家のものしかないんだよ。
N:へえ。前田家の信長への崇敬がこれほどまでに凄まじいとは思いもおよびませんでした。
利家の遺言状に信長の名があるのに秀吉の名はない
私:前田家の信長への崇敬はこの程度では済まない。利家の遺言状の話があるんだ。遺言状には信長の名前が数度出てくるが、秀吉の名は一切ないんだ。
N:秀吉にあれほど世話になっているのにですか?
私:信長の戦法を真似しろ。敵地に踏み込め。自国に侵入は許すな。人事政策も真似しろ。
N:信長の人事政策とはどんな人事政策なのでしょうか?
私:本座者は新参者に越されたことはない。高山右近のような「文武二道」の侍を召し抱えよだ。
信長の利家評定 秀吉「頭脳」 vs 利家「筋肉」
N:がぜん気になり始めました。神(信長)は利家の能力をどう評価していたのでしょうか?
私:信長は能力主義で、大胆な人材登用をする。秀吉が草履取りから天下人へなるくらいのね。そして信長は能力とは石高(給与)と考えていた。石高こそが信長の人事評価の基準で、利家は主任か、よくても係長代理かな。
N:秀吉は? 取締役?
私:そう。利家は槍の又左だもの。首をいくつ取るか? 戦国の価値観そのものだもの。ところが秀吉は「脱」戦国で、知略。「筋肉」対「頭脳」といったところかな。
N:二人の石高の差はどのくらいですか?
私:秀吉は110万石で、わが利家は能登・越前府中24万石だ。